光仁天皇|天武天皇系として最後となった白壁の王
元正天皇から始まった天武系天皇の歴史。
44代から49代まで長きに渡って天武天皇の血筋が日本を統治してきた歴史が、大きく変わりました。
第49代 光仁天皇(こうにん)
【諡号】 天宗高紹天皇(あまつむねたかつぎのすめらみこと)
【諱】 白壁(しらかべ)
【生没】 709年~782年
【在位】 770年~782年
【在位中の元号】 宝亀、天応
【父】 施基親王(第7皇子)
【母】 橡姫(紀諸人の娘)
【陵】 田原東陵(奈良県奈良市日笠町)
第44代元正天皇から始まった天武天皇系の即位。
第48代称徳天皇まで天武系の天皇が即位し続けました。
第49代光仁天皇は、天武天皇系と争い続けた天智天皇系の人物として皇位につきました。
酒に溺れるふりをして生き延びた天皇
光仁天皇は元の名を白壁王(しらかべのおおきみ)と言い、祖父が天智天皇であり、父が天智天皇の息子・施基皇子(しきのみこ)という人物でした。
孝謙天皇・淳仁天皇・称徳天皇の3代天皇時代には、白壁王は酒に溺れてしまった廃人を演技することで生き抜いてこられたと伝えられています。
皇位争いに巻き込まれないために廃人を演じなければならなかった白壁王。
激しく動く時代をかいくぐり、藤原永手らの働きかけで天皇に即位したのは61歳の頃でした。
完全に途絶えてしまった天武系の血筋
光仁天皇は世の安定を願って政をすすめ70歳を過ぎても健在でした。
けれども光仁天皇のバックアップについていた藤原永手が急逝してしまうと、朝廷内で様々な黒い騒動が勃発。
そのほとんどは後継問題に関連したもので、裏で黒い陰謀が渦巻いていたであろうことが予想されます。
光仁天皇の皇后であった井上内親王は、夫・光仁天皇へ呪詛をかけたとして皇后の座から降ろされてしまいます。
さらに光仁天皇と井上内親王の子であった皇子・他戸皇子も廃太子となりどちらも変死しています。
そして天武天皇の血筋は途絶えることとなりました。
田原東陵
光仁天皇が眠っているとされる御陵は円丘の遺跡「田原塚ノ本古墳」。
現在の奈良県奈良市日笠町にある田原東陵(たはらのひがしのみささぎ)です。
光仁天皇は崩御された翌年に広岡山稜へと葬られ、786年に田原稜へと改めて埋葬されました。
ただし光仁天皇の山稜は、そのほかにも様々な場所で候補が上がっています。
- 『大和志』『大日本地名辞書』『和州旧跡幽考』といった記録から奈良市広岡町なのではないか説
- 聖武天皇の眠る佐保山南陵、西にある広岡という地名があり、そこではないかという説
- 広岡山稜は別名後佐保山稜であることから、光仁天皇の御陵なのではないか説
- 「続日本記」に皆無天皇が光仁天皇の一周忌法要を行った奈良市大安寺ではないか説
しかし現在でも真実は明かされていない。