桓武天皇

皇位のチャンスはないと思われていたものの、予想外にチャンスを掴んだ天皇。
そして平安時代最初の天皇となりましたが、早良親王の怨霊に怯える日々も過ごしました。

第50代 桓武天皇(かんむ)

【諡号】 日本根子皇統弥照尊(やまとねこあまつひつぎいやてらすのみこと)
【諱】 山部(やまべ)
【異称】 天国押撥御宇柏原天皇(あめくにおしひらきあめのしたしらすかしわばら)、柏原帝
【生没】 737年~806年
【在位】 781年~806年
【在位中の元号】 天応、延暦
【父】 光仁天皇(第1皇子)
【母】 高野新笠(和乙継の娘)
【陵】 柏原陵(京都府京都市伏見区)

桓武天皇

桓武天皇が即位した経緯

先の帝、光仁天皇の第一皇子として誕生した桓武天皇。
しかし母親である高野新笠(たかののにいがさ)の影響で皇位継承争いには並べないだろうとされてきました。
高野新笠は帰化系氏族出身。
百済王族の末裔だったため、大和朝廷では身分が低かったのです。

そんな桓武天皇にチャンスが巡ってきたのは36歳の時。

皇位継承の可能性があった皇太子・他戸親王(おさべしんのう)。
他戸親王の母親である井上内親王(いのえないしんのう)が呪詛事件を起こしたとして、廃太子となったのです。
他戸親王の母親が起こした呪詛事件は、実は謀られたもので冤罪だったのでは?と言う説が有力とされています。

36歳で立太子となった桓武天皇は、44歳で天皇として即位しました。

実弟・早良親王が関与したとされる暗殺事件と怨霊の祟り

桓武天皇は、実弟であった早良親王(さわらしんのう)を皇太子としました。

けれども長岡京遷都を行った桓武天皇への反抗勢力が根強く残っており、長岡京遷都に当たって建設責任者となっていた藤原種継(たねつぐ)が暗殺されてしまいます。
この暗殺事件に関わっていたのが早良親王だったとして早良親王は捕まり、皇太子も剥奪処分隣、淡路への流刑となりました。
淡路へ向かう道すがら、早良親王は命を落とします。

それから、早良親王の怨霊の祟りが始まりました。

 

桓武天皇が次の皇太子に選んだのは長男・安殿

桓武天皇の皇后であった藤原乙牟漏(おとむろ)は、安殿(あて=後の平城天皇)だけでなく神野(かみの=後の嵯峨天皇)の母親でもあります。
さらに妃として同じ藤原出身から嫁いできた旅子(たびこ)という女性は、大伴(おおとも=後の淳和天皇)を産みました。

けれども、早良親王がなくなった後、29歳で旅子が亡くなり、2年後には30歳の若さで皇后・乙牟漏も亡くなりました。

皇太子・安殿は病に伏せてしまいます。

災禍と乱世

大和王朝で不吉なことが起こると同時に、日本国内で天然痘が大流行。
さらに災禍も起こって大飢饉が起こりました。

ことを重く見た桓武天皇は、陰陽寮に占うよう指示。
その結果、長男である安殿の病の原因は、早良親王の怨霊による祟りだと言う結果が出ました。

桓武天皇はそこから、早良親王の怨霊と祟りに怯える日々を過ごすこととなります。

怨霊の祟りをどうにかするために、桓武天皇な長岡京から平安京へと遷都を行います。

さらに怨霊の祟りを鎮めるためにも、早良親王への崇道天皇(すどう)の号を贈ったりとあの手この手を尽くしました。

けれども世は乱れに乱れ、富士山が噴火するなど凶事はなかなか治りませんでした。

蝦夷討伐と平安京造営ストップ

時は794年。

まだ造営中だったにも関わらず、桓武天皇は平安京へと移り住みました。
その後も造営は続いたものの、早良親王の怨霊に怯える日々は変わりません。

平安京造営と同時進行で行われていたのが、蝦夷討伐でした。
蝦夷討伐は何度も行われましたが、1回目と2回目は失敗に終わります。

7年後の801年、将軍・坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)が群を率いて3回目の蝦夷討伐へと向かいました。

坂上田村麻呂
坂上田村麻呂

蝦夷討伐に関する詳細文献はないものの、この時は蝦夷の胆沢を攻めて勝利を収めたと伝えられています。
そして東北軍事拠点として、田村麻呂は胆沢に城を建てました。

4回目となる蝦夷討伐の計画が持ち上がったのは803年。

けれどもこの時、藤原緒嗣(おつぐ)が桓武天皇にこう進言します。

藤原緒嗣藤原緒嗣

今、天下が苦しんでいるのは蝦夷討伐と平安京造営によるものです

この言葉で桓武天皇は蝦夷討伐中止と、平安京造営を中止したと伝えられています。

帰化系氏族出身者が後宮に入り始めた時代

帰化系氏族出身である母を持つ桓武天皇が即位。
さらに藤原良継の娘で桓武天皇の皇后となった乙牟漏、藤原良継の弟・藤原百川の娘で妃となった旅子など、この時代は政府高官の娘も後宮に入り始めています。

光仁天皇の娘、桓武天皇にとっては異母妹である酒人内親王(さかひとないしんのう)も後宮入りしています。

この酒人内親王は『東大寺要録』に記載があり、美しく艶のある女性だったものの、高慢な性格で精神面で不安定だったとも伝えられています。
けれども桓武天皇は、酒人内親王を寵愛したそうな。

ちなみに桓武天皇は皇太子になる前も幾人か女性を迎えていますが、百済王貞香(くだらのこにきし-じょうきょう)・百済王教仁(きょうにん)といった帰化系氏族が多かったとされています。

桓武天皇時代、文化面での変化

桓武天皇時代には以下のような文化面での変化がありました。

  • 『続日本紀』の編纂
  • 空海、最澄といった唐からの留学、天台法華や密教の伝来

柏原陵

桓武天皇が眠るとされているのは、京都府京都市伏見区桃山町にある柏原陵(かしわばらのみささぎ)です。
生前、桓武天皇は宇多野へ埋葬してほしいと希望していたものの、不穏な事件が続発。
占いの結果、賀茂神社の祟りが関わっているとされ、現在の柏原陵への埋葬が決まったとされています。
中世、動乱の際には御陵の場所が不明となりました。
さらに豊臣秀吉の伏見城敷地内となったこともありました。
幕末になり、現在の場所へと治定されました。