朱雀天皇|新皇と名乗った平将門と2つの乱

優しく穏やかな性格だった朱雀天皇ですが、生まれて亡くなるまでの人生は壮絶な出来事の連続でした。

第61代 朱雀天皇(すざく)

【諡号】 
【諱】 寛明(ゆたあきら)
【異称】 朱雀院(追号)
【生没】 923年~952年
【在位】 930年~946年
【在位中の元号】 延長、承平、天慶
【父】 醍醐天皇(第11皇子)
【母】 藤原穏子(藤原基経の娘)
【陵】 醍醐陵(京都府京都市伏見区)

優しく穏やかな性格だったと伝えられる天皇

朱雀天皇醍醐天皇が中宮として迎えたのが、藤原時平の妹である藤原穏子でした。
醍醐天皇と藤原穏子の間には3人の皇子が誕生し、天皇へと即位したのが2人の皇子でした。

  • 保明親王
  • 寛明親王(のちの朱雀天皇)
  • 成明親王(のちの村上天皇)

第61代の天皇に即位した朱雀天皇は、父である醍醐天皇の第11子です。

この時代、世の中は菅原道真の怨霊(の仕業とされる)出来事や不幸事が頻発していました。
朱雀天皇の兄である保明親王が早くに亡くなり、菅原道真の怨霊を恐れた醍醐天皇は早々に譲位を決断。
わずか7歳だった朱雀天皇が第61代天皇へと即位することとなりました。

同様に怨霊を恐れた藤原穏子は、几帳を何重にも張った部屋の奥深くにて、子供たちを外に出すことなく育てたと伝えられています。

7歳で即位した朱雀天皇の側近となったのは、朱雀天皇の伯父にあたる藤原忠平ただ一人でした。
朱雀天皇時代は地震や噴火も幾度となく起こり、世の中が安定しない時代となりました。
さらに935年は平将門の乱、936年には藤原純友の乱も起きています。

わずか7歳で即位し、優しく穏やかな性格だったと伝えられている朱雀天皇は、23歳で譲位して出家、29歳の若さで崩御されました。

2つの大きな乱

東国では平将門が、西では藤原純友がとても近い時期に反乱を起こしました。
この2つは承平〜天慶の年に勃発したことから「承平・天慶の乱」と呼ばれます。

ほぼ同時期に大きな反乱が2つも起きてしまったために、朱雀王朝は鎮圧へ多大な労力を割かなければなりませんでした。

そして、反乱鎮圧のために貢献した武士が改めて認識されることとなり、律令国家はもはや不可能であること、そして地方武士が存在感を強める要因となりました。

平将門の乱(承平の乱)

桓武平氏といえば、桓武天皇のひ孫・高望王が平氏を与えられて始まった一族であり、東国に早くから根付いて大きな力を持っていました。
平氏内での親族内抗争に勝利した平将門がさらに勢力を広げ、対立関係にあった「受領」と「地方富豪」の関係を収めようと動き出します。
けれども対立関係がさらに悪化する結果となり、大きな戦へと発展して朝廷への反乱とみなされた結果こそが、平将門の乱です。

元々は関東の地方武士で、源氏の地を引く人物だった平将門。
親族内抗争が原因で朝廷と対立する結果となりました。
清和天皇の血筋である源氏、という立場で朝廷に従う…というスタイルではなかった平将門。
常盤国・国府を襲撃して国印を奪い、次には上野と下野でも国府を襲撃し、関東制圧を成し遂げました。
勢いづいた平将門は自称「新皇」として、独自の国家を作ろうと画策していたのです。

平将門の勢いを止めるために、朱雀王朝が東穀に向かわせたのは、征夷大将軍・藤原忠文。
けれども平将門が新皇と自称した2ヶ月後、王朝軍が到着する前に平貞盛・藤原秀郷・藤原為憲らの追討軍が平将門を打ち取り、平将門の乱は鎮圧となりました。

藤原純友の乱(天慶の乱)

ほぼ同時期と言えるタイミングで、瀬戸内にて藤原純友の乱が勃発しました。

平将門の乱と時期を同じくして、瀬戸内で藤原純友の乱が起こりました。
元々、藤原純友は瀬戸内海域での海賊鎮圧の担当でした。
藤原純友と地方任官らが結託して武装勢力を作り、京から赴任してきた受領らと対立することとなったのです。

藤原純友は海賊らも率いることで勢力を広げて、伊予にて国府を強奪。
淡路も占領下とし、西にある大宰府まで攻め落とすことに成功し、朝廷にとってとてつもなく危険な存在となりました。
藤原純友は西国で襲撃を重ね、朝廷へ勲功を評価しなければ争うのみ、と持ちかけます。

朱雀朝廷は平将門の乱が鎮圧されたことを確認して、藤原純友の乱を鎮圧させるために再び藤原忠文を大将軍に任命して、西国へ軍を向かわせました。
源経基ら(小野好古・清和源氏の祖)によって藤原純友の乱は鎮圧されました。

醍醐陵

朱雀天皇が眠っているのは京都府京都市伏見区醍醐御陵東裏町の醍醐陵(だいごのみささぎ)だと伝えられています。
北西のほど近い場所には、父である醍醐天皇の山科陵もあり、古くから醍醐天皇が眠る「上ノ御陵」、朱雀天皇が眠る「下ノ御陵」と呼ばれていました。