孝謙天皇|6人目の女帝、史上初となる東宮の立太子

聖武天皇に譲位され歴史上6人目の女帝として即位した孝謙天皇。
東宮として立太子したのは、孝謙天皇が歴史上初だと言われています。

第46代 孝謙天皇(こうけん)

孝謙天皇【諡号】 -
【諱】 阿倍(あべ)
【異称】 高野天皇(たかぬのすめらみこと)
【生没】 718年~770年
【在位】 749年~758年
【在位中の元号】 天平勝宝、天平宝字
【父】 聖武天皇(第2皇女)
【母】 光明皇后(藤原不比等の娘)
【陵】 高野陵(奈良県奈良市山陵町)

歴史上初である東宮の立太子。
そして父である聖武天皇から譲位されて即位したのが、孝謙天皇でした。
その背景には、藤原一族と光明皇后の強力なバックアップがあったといわれています。

再び勢力を増した藤原一族

聖武天皇時代、天然痘が大流行し、藤原家でも力のあった藤原4兄弟が相次いで亡くなりました。
そのタイミングで国政における力を増したのが、元皇族であった橘諸兄(たちばなのもろえ)です。

聖武天皇から譲位され孝謙天皇が即位すると、藤原武智麻呂(むちまろ)の子である藤原仲麻呂(恵美押勝)が劣勢になっていた藤原家の力を巻き返し始め、左大臣であった橘諸兄を失脚させることに成功します。

橘諸兄の子である橘奈良麻呂(たちばなのならまろ)率いる「反・藤原仲麻呂一派」が反乱を企てるも藤原仲麻呂(なかまろ)はこれをいち早く察知して未然に鎮圧し、政敵を排除していきました。
橘奈良麻呂は捕らえられた、拷問の末に獄死したとされています。

孝謙天皇が即位し、その後ろ盾として実権を握った光明皇后が、藤原仲麻呂らをバックアップしたことが、藤原家再盛に大きく影響したことは間違いありません。

孝謙天皇

高野陵

孝謙天皇が眠っているとされるのは、前方後円形式となっている遺跡「佐紀高塚古墳」。
およそ127mもある、現在の奈良県奈良市山陵町にある高野陵(たかののみささぎ)だとされています。

しかしこの古墳は佐紀盾列古墳群の一部である前方後円墳なので、本当に孝謙天皇の御陵なのか疑問視する声も上がっています。