称徳天皇|重祚した女帝、怪僧・道鏡を寵愛し法王として採用
称徳天皇は2代前に孝謙天皇として即位していた女帝です。
重祚(天皇が再び天皇の座に就くこと)して再び実権を握った女帝は、寵愛した僧を政に抜擢しました。
第48代 称徳天皇(しょうとく)
【諡号】 -
【諱】 阿倍(あべ)
【異称】 高野天皇(たかぬのすめらみこと)
【生没】 718年~770年
【在位】 764年~770年
【在位中の元号】 天平宝字、天平神護、神護景雲
【父】 聖武天皇(第2皇女)
【母】 光明皇后(藤原不比等の娘)
【陵】 高野陵(奈良県奈良市山陵町)
権力争いに勝利し淳仁天皇を淡路に幽閉した孝謙上皇は、重祚して第48代称徳天皇として再び天皇の座につきました。
称徳天皇の寵愛を受けて朝廷に入り込んできた怪僧・道鏡
女帝として再び政に戻ってきた女帝は、異常なほどに1人の僧を寵愛し、政治の場に連れ込みました。
その名を弓削道鏡(ゆげのどうきょう)。
道鏡はもともと看病禅師でした。
病にかかっていた称徳天皇を加持祈祷によって治癒することに成功したという道鏡を、称徳天皇は激しく寵愛したと伝わっています。
称徳天皇の寵愛を受けた道鏡は、重祚した女帝について太政大臣禅師に起用され、その後法王の座につき、どんどん昇進していきます。
さらには自身が皇位につこうという魂胆まで垣間見せるようになりました。
宇佐八幡神から「道教が皇位につくことで天下太平になる」という神託があったというのです。
※この神託は後々、虚偽であったことが判明する。
一介の看病禅師が政に関わるようになり、遂には皇位まで狙うという前代未聞の事態に陥った朝廷。
しかし道鏡を寵愛した称徳天皇が天然痘で崩御されると、途端に道鏡皇位の話は亡くなった。
一説には、道鏡が天皇になることを危惧した内部の人間が、毒殺したのではないか?というものもある。
最強の後ろ盾を失った道鏡は、下野国に流されることになり、その地で没したと伝えられています。
称徳天皇の母である光明皇后
聖武天皇が皇后として迎えた藤原安宿媛(光明皇后)。
聖武天皇が崩御されると皇太后となって、孝謙天皇の後ろ盾として実質的に権力を握りました。
聖武天皇時代の左大臣・長屋王
現在の奈良県生駒郡平群町にあるお墓で眠っている長屋王。
聖武天皇時代、大きな権力を握る左大臣として活躍しましたが、左道を使った謀反を企てているという「」が流れたことで
長屋王とその妻子共々、自害に追い込まれてしまいました。
高野陵
称徳天皇が眠っているとされるのは、前方後円形式となっている遺跡「佐紀高塚古墳」。
およそ127mもある、現在の奈良県奈良市山陵町にある高野陵(たかののみささぎ)だとされています。
しかしこの古墳は佐紀盾列古墳群の一部である前方後円墳なので、本当に称徳天皇の御陵なのか疑問視する声も上がっています。