舒明天皇|蘇我家に実権を握られながらも2人の天皇の父となった人物
天皇が政の中心だという体裁を保ちつつも、蘇我家の影響力が拡大し続けた時代。
舒明天皇もやはり、蘇我家に実権を握られ続けた天皇です。
第34代 舒明天皇(じょめい)
【諡号】 息長足日広額天皇(おきながたらしひひろぬかのすめらみこと)
【諱】 田村皇子(たむらのおうじ)
【生没】 593年~641年
【在位】 629年~641年
【父】 押坂彦人大兄皇子(敏達天皇の第1皇子)
【母】 糠手姫皇女(敏達天皇の娘)
【陵】 押坂内陵(奈良県桜井市大字忍阪)
蘇我家の影響を受けながらも政を行なった、天皇史上初の女帝・推古天皇。
一方で敏達天皇の孫として即位したものの、蘇我家の影響が色濃かったために、舒明天皇は目立った業績を残せないままでした。
推古天皇亡き後、天皇候補として名が上がったのは、聖徳太子の子供・山背大兄皇子と、敏達天皇の孫である田村皇子、後の舒明天皇でした。
山背大兄皇(やましろのおおえのみこ)は、母が蘇我蝦夷の妹です。
蘇我蝦夷(そがのえみし)は蘇我馬子(そがのうまこ)から蘇我家を継いだ人物です。
蘇我家に近い山背大兄皇子を推すものかと思いきや、意のままに操りやすかった田村皇子(たむらのおうじ)を次代天皇として擁立。
その裏には、推古天皇の後に再び蘇我系の山背大兄皇子が天皇になれば、力を持つ豪族たちの反感を買うことになる。
この豪族たちの反感を避ける意図もあったとされています。
天皇としての大きな業績は残せていないとされる舒明天皇ですが、皇后・宝女王(皇極・斉明天皇)との間に生まれた2人の皇子は後に有名な天智天皇・天武天皇となりました。
押坂内陵(奈良県桜井市大字忍阪)
舒明天皇が眠っているとされているのは、遺跡名「段ノ塚古墳」、奈良県桜井市大字忍阪にある押坂内陵(おさかのうちのみささぎ)だとされています。
形状は上円下方というもので、上円部が八角系、下方部が一辺およそ150mほどの大きな上八角下方墳になっています。
押坂内陵が舒明天皇の御陵だとされたのは、元禄時代の探陵のことでした。
この御陵には糠手姫皇女(田村皇女)がともに眠っているとされており、御陵の範囲内には大伴皇女のお墓が、東南部には鏡王女のお墓もあるとされています。
元禄探陵の際に当時「段ノ塚」と呼ばれていた本古墳が舒明天皇陵に決定
この舒明天皇の形がモデルとなり、明治天皇陵以降は上円下方の形式になっています。