聖武天皇|自身は遷都を重ね、皇后が絶大な権力を握った時代

母の異母妹である女性を皇后に迎え、皇后やそのバックにいた藤原四兄弟に実権を握られていたとみられる聖武天皇。

妻を皇后に迎えるにあたって、長屋王の変(ながやおうのへん)など争いが多く起こった時代でもありました。

第45代 聖武天皇(しょうむ)

【諡号】 天璽国押開豊桜彦天皇(あめしるしくにおしはらきとよさくらひこのすめらみこと)
【諱】 首(おびと)
【異称】 勝宝感神聖武皇帝、沙弥勝満
【生没】 701年~756年
【在位】 724年~749年
【在位中の元号】 神亀、天平、天平感宝
【父】 文武天皇(第1皇子)
【母】 藤原宮子(藤原不比等の娘)
【陵】 佐保山南陵(奈良県奈良市法蓮町)

皇后を巡り起きた長屋王の変

聖武天皇聖武天皇の祖父にあたる藤原不比等(ふひと)は天才政治家と呼ばれました。

そんな祖父を持つ聖武天皇が皇后として迎えたのは、安宿媛(あすかべひめ)、通称は光明子(こうみょうし)という女性。
藤原不比等の娘であり、聖武天皇の母の異母妹、聖武天皇にとっては叔母(伯母)にあたる女性です。

聖武天皇や藤原家は、この安宿媛(光明子)を立后させようと動きます。

※立后・・・妻を皇后に立てること

けれども立后に反対したのが長屋王(ながやおう)でした。
当時、皇后となるのは皇族出身の女性というのが慣例となっており、藤原家出身である安宿媛(光明子)が皇后になるのは異例だと声をあげたのです。

けれども長屋王にはその後謀反の嫌疑が浮上し、自殺へと追い込まれる結果に。

こうして幕を閉じた長屋王の変は、裏で安宿媛(光明子)を皇后にすべく藤原4兄弟が動いていたと伝えられています。

皇后誕生、直後の続発した不吉な出来事と東大寺

大仏反対勢力を排除したのち、安宿媛は光明皇后となりました。
安定するかのように思えた情勢は、強大な権力を握っていた藤原4兄弟が天然痘で次々に亡くなり
他の臣下たちも天然痘で相次ぎに倒れて政務が滞ってしまいます。
さらに天変地異が次々に起こり、大宰府にて藤原広嗣の反乱が起こるなど、日本中が荒れはじめました。

鎮護国家を祈願するために、聖武天皇は国分寺(金光明四天王護国之寺)や国分尼寺(法華滅罪之寺)を全国各地に建立するよう命じます。

この時に国分寺総本山として誕生したのが、大和国平城京の東大寺でした。

※全国にお寺を建てるようにと進言したのは、仏教を篤く信仰していた光明皇后だったとされています。

そのほかにも聖武天皇は、民衆から支持を得ていた僧侶の行基に東大寺に大仏建立を命じ、さらに何度も遷都を行ったと言われています。
いくつものお寺の建立や度重なる遷都、国家予算を莫大に消費したことで、国も民衆にも疲弊が積もったと言われており聖武天皇はこの頃、精神的に不安定な状態だったとも伝えられています。

749年に天皇は大仏を礼拝し、自分自身を「三宝(仏法僧)の奴」と称して天平勝宝という元号へと改めました。
その年、娘の阿倍内親王へと譲位して孝謙天皇が誕生し、光明皇后は天皇の母として政治に深く関与する権力を握りました。

甥の藤原仲麻呂(なかまろ)を皇后の宮職長官へと任命し、甥と共に実権を我が物にしていきます。

皇后が建立を命じた悲田院と施薬院

民衆のために様々な業績を残した光明皇后は、飢饉や疫病の際に民衆を救済する施設が必要だとして、悲田院と施薬院を作りました。

聖武天皇を深く愛していたとも伝えられており、万葉集8巻には、聖武天皇と冬景色を眺める幸せに溢れた歌が掲載されています。

実権を握った光明皇后の姿は、『続日本紀』にてこのように記されています。

「皇帝・皇太后は、日月の照り臨むが如くにして、並に万国を治めたまひ」

これは天皇と皇后がまるで同等のような立ち位置にいて、政治を行っていたと取れます。

聖武天皇が娘へと譲位すると、光明皇后は民衆のための政治を行ったと伝えられています。

佐保山南陵

聖武天皇が眠っているとされているのは、山形式の遺跡である「法蓮北畑古墳」。
現在の奈良県奈良市法蓮町にある佐保山南陵(さほやまのみなみのみささぎ)です。
夫と共に政治を行った光明皇后は、佐保山東陵に眠っていると伝えられています。