推古天皇|日本歴史上初めての女帝誕生

2021年1月9日

第32代崇峻天皇の暗殺騒動により、巨大な権力を手にした蘇我氏。
蘇我氏が天皇の座においたのは、蘇我稲目(そがのいなめ)の孫に当たり、敏達天皇の后でもあった推古天皇でした。

第33代 推古天皇(すいこ)

推古天皇【諡号】 豊御食炊屋姫天皇(とよみけかしきやひめのすめらみこと)
【諱】 額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)
【生没】 554年~628年
【在位】 593年~628年
【父】 欽明天皇(第3皇女)
【母】 堅塩媛(蘇我稲目の娘)
【陵】 磯長山田陵(大阪府南河内郡太子町)

天皇を臣下が弑逆するという大事件。
暗殺された崇峻天皇は、蘇我氏によって葬られたものの、天皇として歴代天皇に加えられず、領地や陵戸も与えられないという悲惨な扱いとなりました。
天皇暗殺の首謀者である蘇我馬子(そがのうまこ)は、蘇我稲目(そがのいなめ)の孫であり、敏達天皇の后でもあった女性を推古天皇として即位させ、自身はその後ろ盾としてさらに巨大な権力を手にしました。

日本史上初の女帝

推古天皇

日本史上初の女帝として君臨した推古天皇。

彼女は大臣に蘇我馬子、甥にあたる聖徳太子を皇太子兼摂政として置き、政は2人に任せました。
摂政となった聖徳太子(しょうとくたいし)は国政の一環として天皇集権を推進したという実績を残しています。

推古天皇が即位して2年経過した頃、聖徳太子が発令したのが仏教を重んじる『仏教興隆の詔』でした。
さらに朝鮮大陸との外交を積極的に進め、大陸の文化や風習や制度をどんどん取り込んでいったのです。
そうして日本に取り入れられたのが、以下の有名な制度や仕組みです。

  • 冠位十二階の制定
  • 訢羅征討軍の派遣
  • 遣隋使の派遣
  • 十七条憲法の制定
  • 日本で最初の官選国史※『国記』や『天皇記』など

どれも日本史で習う有名なものばかりですね。

聖徳太子は600年と607年に遣隋使を派遣しており、小野妹子(おののいもこ)らが参加した607年の際には、かの有名な国書を隋の煬帝に送って激怒させたという有名すぎるエピソードを残しています。

<日出る処の天子、書を日没する処の天子に致す>

この一文も日本史で習う有名なものです。

聖徳太子は大国である隋と対等に外交を行おうとしていたことが分かります。

史実によると推古天皇は聡明な人柄で、政への感覚も優れていたとされています。
実質、権力を握っているような存在の叔父・蘇我馬子にも臆することなく意見をし、葛城県を下賜してはどうかと言い出した時も、推古天皇は反対しています。

推古天皇:「そのようなことをすれば、私もあなたも後世にまで愚帝・愚臣を呼ばれ続けるだろう」

叔父や甥に実権を握られながらも、天皇として果たすべきことを果たそうと努めた日本初の女帝は、75歳で崩御されました。

ちなみに現代で使われている「推古天皇」などの称号は、天武天皇か推古天皇時代に使われ始めたのではと言われています。

異例の早さで後妻として皇后となった推古天皇

第30代敏達天皇の皇后であった推古天皇は、後妻でした。
もともと敏達天皇は息長真手王の娘・広姫を皇后として迎えていましたが、1年も経過しないうちに広姫は亡くなってしまいます。

広姫が亡くなってわずか4ヶ月後に後妻の皇后となったのが、推古天皇でした。
わずか4ヶ月ほどで次の皇后が嫁いでくるのは異例であり、実はその裏に蘇我氏の謀略があったのではないかという見方もあります。

皇后となった推古天皇は、敏達天皇が崩御するまでの9年間、皇后の地位を守っていたことから、女帝候補となったのではとも言われています。
けれども推古天皇の子供は即位することなく、前妻・広姫(ひろひめ)の孫にあたる田村皇子(たむらのおうじ)がのちに34第舒明天皇として即位します。

磯長山田陵

推古天皇の御陵として定められているのは遺跡名「山田高塚古墳」、大阪府南河内郡太子町大字山田にある磯長山田陵(しながのやまだのみささぎ)で、息子である竹田皇子と共に眠っているとされています。

古事記には「大野岡上」から「科長大陵」へ改葬があったとの記述がありますが、古事記では竹田皇子と共に眠っているという記述はありません。

また『扶桑略記』によると、1060年に推古天皇の御陵にて盗掘があったとされています。