文徳天皇|藤原良房に暗殺されたのか?生涯翻弄された悲運の天皇

目立った業績を残さなかった仁明天皇に次に即位したのが、文徳天皇でした。
朝廷内で権力を増していた藤原北家出身の天皇でしたが、伯父である藤原良房の圧力に苦しみ続けた天皇でもありました。

第55代 文徳天皇(もんとく)

 

【諱】 道康(みちやす)
【異称】 田邑帝(たむらのみかど)
【生没】 827年~858年
【在位】 850年~858年
【在位中の元号】 嘉祥、仁寿、斉衡、天安
【父】 仁明天皇(第1皇子)
【母】 藤原順子(藤原冬嗣の娘)
【陵】 田邑陵(京都府京都市右京区)

文徳天皇

藤原良房が権力を振るった時代

藤原良房が起こした「承和の変」により立太子、即位した文徳天皇でしたが、藤原良房の圧力は凄まじいものでした。
文徳天皇は天皇でありながらも内裏正殿で暮らすことができず、外れにある東宮で過ごしていました。

文徳天皇のバックについたことでより一層支配力を強めた藤原良房。

文徳天皇の崩御は良房の暗殺だった!?

文徳天皇時代にますます権力を強めた藤原良房。

文徳天皇が皇太子として推挙したのは、才能溢れる第一皇子・惟喬親王でした。
けれども藤原良房は、自身の娘である明子(あきらけいこ)と文徳天皇の間に生まれた惟人親王を立太子させるため、御所の警備を固めた上で、まだ1歳であった惟人親王を立太子させるという強硬策に出たのです。

1歳児の立太子というのは異例中の異例でしたが、それだけ藤原良房の支配力が強かったことの証と言えます。

さらに皇族出身ではなかった藤原良房は、圧倒的な支配力で太政大臣にも就いています。

もともと体が弱かった文徳天皇は31歳で崩御されましたが、藤原良房が暗殺の可能性もあるといわれています。

田邑陵

文徳天皇が眠っているとされているのは、京都府京都市右京区太秦三尾町にある円丘「田邑陵(たむらのみささぎ)」。
遺跡名は「太秦三尾古墳」です。

中世の頃から文徳天皇の御陵は所在不明となっており、江戸時代に候補として上がっていたのは京都市西京区御陵塚ノ越町の「天皇の杜古墳」でした。
幕末の頃、文徳天皇の陵墓として現在の御陵が治定されるも、この御陵は横穴式石室があるため、古墳時代後期の円墳である可能性が高く、文徳天皇の御陵ではない可能性が高いと言われています。