天智天皇

天皇にまで影響力を及ぼし続けた蘇我家へのクーデターを起こし、大化の改新を推し進めて天皇集権を取り戻した天智天皇。
中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)という名とは別に、近江天皇や開別皇子、葛城皇子とも呼ばれた人物でもありました。

第38代 天智天皇(てんじ)

【諡号】 天命開別天皇(あめみことひらかすわけのすめらみこと)
【諱】 葛城皇子(かつらぎのみこ)
【異称】 中大兄皇子、開別皇子、近江大津宮卻宇天皇、近江天皇(万葉集)
【生没】 626年~672年
【在位】 668年~672年
【父】 舒明天皇(第2皇子)
【母】 宝女王(=皇極・斉明天皇)
【陵】 山科陵(京都府京都市山科区)

中大兄皇子の手腕

天智天皇

蘇我系天皇を出し、政治でも大きな力を持ち我が物顔でいた蘇我家は、中大兄皇子(後の天智天皇)らによって討ち滅ぼされました。
中大兄皇子が蘇我入鹿(そがのいるか)を討ち、蘇我蝦夷(えみし)を自害に追い込んだのが乙巳の変(いっしのへん)。
その後、大化の改新を推し進めて、政治体制をこれまでの豪族との連合政体から天皇集権へと大きく変えていったのが、天智天皇なのです。

蘇我宗家を滅ぼしたと、それに続く大化の改新を主導。
これまで豪族との連合だった国家体制を、大きく天皇集権へと切り替えた人物として有名です。

天智天皇が残した業績は多岐に渡ります。

  • 国郡制度(諸国統治のために設けられた)
  • 租庸調(国家財政を安定的にするための税制)
  • 公地公民(土地も人民も天皇に帰属する)
  • 班田収授法(戸籍を作り、土地を天皇から人民に貸し出す制度)

大化の改新は疑問視する声は批判もあったようですが、天皇集権という方向性ではかなり優れた政策だったとされています。

660年、皇極天皇時代からずっと友好関係にあった百済が唐・新羅の連合軍によって窮地に立たされると、百済を救うために大軍を向かわせます。
661年、百済救援の道半ばで斉明天皇が「神の祟り」によって崩御すると、中大兄皇子は即位しないまま政治を担う「称制」として軍隊を朝鮮に向かわせました。
けれども「白村江の戦い」において、中大兄皇子の指揮する日本軍は唐に大敗となりました。

外交政策が大失敗に終わった中大兄皇子は、称制のままに政権を建て直すことに奔走します。
667年、飛鳥から近江への遷都を行い、家臣などの人心を一新して668年に天智天皇として即位しました。
立太子が645年、即位が668年。
実に23年もの間、称制として政権立て直しを図ったのです。

けれども即位してたった4年、46歳で病により亡くなりました。
亡くなる直前、天智天皇は弟だとされている大海人皇子(おおあまのみこ)が吉野出家することを許しています。
これを家臣たちは危惧し「虎に翼をつけて野に放ったも同然」とまで言っています。
家臣たちの危惧した通り、天智天皇が崩御すると壬申の乱(じんしんのらん)が勃発。
大海人皇子は大友皇子を滅ぼしてしまったのです。

これをきっかけに天智系VS天武系の皇位争いが続くわけですが、結果的に生き残ったのは天智系でした。

ちなみに大海人皇子は天智天皇の弟だとされていましたが、年齢は大海人皇子の方が上だったとされており、兄弟ではないとのこと。

激しくなる皇位争いから、義理の父も討伐した天智天皇

天智天皇天智天皇の皇后として嫁いだ倭姫王(やまとひめのおおきみ)は、古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ)の娘でした。
古人大兄皇子は舒明天皇の息子でもあり、天智天皇とは異母兄という関係。

舒明天皇が崩御された時、古人大兄皇子は蘇我蝦夷・入鹿という当時大きな力を持った後ろ盾を持っていました。
そして中大兄皇子、山背大兄王との皇位継承争いが激化。

蘇我氏が山背大兄王を討つと、乙巳の変により中大兄皇子と中臣鎌足らが蘇我氏を討ち、古人大兄皇子は強大な後ろ盾を失って一気に劣勢となります。
古人大兄皇子は出家して吉野で隠遁生活を隠れ蓑に謀反を企てるも、密告により中大兄皇子が軍勢を向かわせて討伐されてしまいました。
中大兄皇子は、妻の父を皇位継承争いの果てに討ち、倭姫王は一族唯一の生き残りとなってしまったのです。

かの有名な万葉集には倭姫王の詠んだ歌も掲載されていますが、父と夫の間に挟まれた女としての葛藤などは書かれていないとされています。

山科陵

天智天皇が眠っているとされているのは、遺跡名「御廟野古墳」、京都府京都市山科区御陵上御廟野町にある山科陵(やましなのみささぎ)です。
御陵の形は八角上円下方。
天智天皇10年12月3日、グレゴリオ暦だと672年1月10日ということで、御陵では1月10日に正辰祭が開催されています。