陽成天皇|宮中での殺人事件と”異常”と呼ばれた天皇

生後2ヶ月で立太子、わずか7歳で天皇として即位するも
異常や奇行が多かったためか、15歳で譲位されたという異例の人物こそが、陽成天皇です。

第57代 陽成天皇(ようぜい)

【諱】 貞明(さだあきら)
【生没】 869年~949年
【在位】 876年~884年
【在位中の元号】 貞観、元慶
【父】 清和天皇(第1皇子)
【母】 藤原高子(藤原長良の娘、二条后)
【陵】 神楽岡東陵(京都府京都市左京区)

奇行・異常とも呼べるエピソードが多数残っている陽成天皇

歴代天皇の中でも異常な行動が多かったと言われている陽成天皇。

先帝・清和天皇はわずか1歳で立太子しましたが
陽成天皇はそれを上回る生後2ヶ月での立太子でした。

さらにわずか7歳で天皇で即位したという異例の事態でもありました。

陽成天皇幼い陽成天皇の代わりに政治を行ったのは、藤原良房の後継、摂政となった藤原基経。
そして陽成天皇の母であり藤原基経の妹である高子でした。

幼い頃から殺生への異常な執着をみせていた陽成天皇。

  • 囚人を裸にして塔の上で射殺
  • 女官を縛った上で池に投げ溺死させる
  • 小動物を殺め続けるなど

人としてそもそも異常な行動が多かったと伝えられています。

それらの異常行動が原因かは分かりませんが、15歳で譲位しています。

一説には、乳母の子を殴殺したことが原因で譲位に追い込まれた可能性があるとのこと。

藤原基経と陽成天皇の母・高子との不仲説

876年、先帝で乳でもあった清和天皇から譲位されて陽成天皇が誕生しました。
陽成天皇の政治は、母・高子の兄である藤原基経が摂政に就いて支えることに。
当初は清和上皇や高子、藤原基経の支えで政務が行われていましたが、880年に清和上皇が崩御されて後、事態が悪化。
藤原基経との関係が悪化したらしく、基経が出仕を拒否し始めたのです。

清和上皇の元に基経の娘2人が嫁いでおり、陽成天皇の元服の際にはさらに2人の娘のうちどちらかを嫁がせようとしていた基経。
しかし高子がこれに反対したことで関係が悪化したのではないかという説があります。

また一説には、陽成天皇が政治を始めるまでの期限付きの摂政だったという見方もあり、陽成天皇が元服したために摂政を辞したのでは?とも言われています。

ただ、摂政でありながらも私邸に引きこもり政局を乱れさせたという話もあるため、何かしらのトラブルが起きていた可能性が高いと言われています。

こういった混乱の根底にあったのは、基経と高子の兄妹間のトラブルだという見方が強く、その原因は権力争いでした。

清和天皇は高子との間に陽成天皇他2人の子をもうけましたが、身分や氏姓関係なく多くの女性を娶っていました。
そこで藤原基経は、身分が高いわけでもない女性との間に生まれた娘・頼子を清和天皇の元に入内させようとしていました。
外孫を望む兄へ高子が反感を抱いたとも言われています。

宮中で異例の殺人事件が勃発

出仕を拒んでいた藤原基経が画策したのではと言われている殺人事件が起きています。

陽成天皇の乳兄弟・源益が天皇へ近侍していた時のこと。
源益が殴殺されてしまったのです。

この事件に関して詳細を綴った記録が残されていないため、犯人も不明、経緯も不明なのですが、当時は陽成天皇が関わっていたのではと囁かれたそうです。

陽成天皇の故意的な思惑だったのか事故だったのかも不明ですが、現在では多くの歴史家が、陽成天皇が関わっていたのだろうと推測しています。

宮中での殺人事件の翌年、陽成天皇は表向きは病気による自主的譲位と発表されました。
けれども実際は、藤原基経が譲位を迫ったと言われています。

奇行・異常な行動や暴君だっだという説も残されていますが、一方ではわずか15歳で退位したこと、殺人事件の不可解な点も含めて、藤原基経が意のままに操れる光孝天皇を即位させたことをごまかすためだったのでは、とも指摘されています。

神楽岡東陵

陽成天皇が眠っているとされているのは、京都府京都市左京区浄土寺真如町にある八角丘「神楽岡東陵(かぐらがおかのひがしのみささぎ)」だとされています。