弘文天皇~明治に入るまで天皇として加えられていなかった悲劇の皇子~

壬申の乱勃発の原因ともなった人物だとされ、実際に即位したのかどうかが今だに不明。
歴代天皇の第39代として算入されたのは、明治に入ってからのことでした。

第39代 弘文天皇(こうぶん)

弘文天皇【諱】 大友皇子(おおとものみこ)
【生没】 648年~672年
【在位】 672年~672年
【父】 天智天皇(第1皇子)
【母】 伊賀采女宅子娘
【陵】 長等山前陵(滋賀県大津市御陵町)

天智天皇の第一子であり、大友皇子として継承権第一位だったはずの人物。
けれども本当に即位したのかどうかは、専門家の間でも議論が分かれる、未だに謎の多い天皇(?)でもあります。

というのも、『懷風藻』といった史実の中では弘文天皇(大友皇子)は、父である第38代天智天皇の生前、立太子してはいます。
天智天皇が崩御して2日後には即位したとも伝えられているのですが・・・

弘文天皇日本書紀には、壬申の乱勃発の原因としても記されているのです。
もともと天智天皇は大海人皇子(後の天武天皇)をすでに皇太子としていましたが、我が子である大友皇子を即位させたいと考えた天智天皇が、大海人皇子から東宮位を剥奪したのです。
そのまま大友皇子を東宮位において、672年に天智天皇が崩御。

吉野を拠点にしていた大海人皇子が壬申の乱を起こして近江朝の大友皇子に攻め入り、大友皇子は戦いに敗れて自害してしまいます。

即位する前に敗れてしまったのか、即位してすぐに敗れてしまったのか。
真実は未だ解明されていません。

大友皇子は史実のよると文武両道、聡明であったとされています。

長く天皇として加えられていなかった大友皇子は、明治3年になって弘文天皇として歴代天皇にようやく加えられました。

長等山前陵

大友皇子・弘文天皇が眠っているとされているのは、遺跡名「園城寺亀丘古墳」、滋賀県大津市御陵町にある円丘の形をした長等山前陵(ながらのやまさきのみささぎ)です。

ただし、弘文天皇の御陵だとされる候補地は他にもいくつかあります。
・千葉県君津市、白山神社古墳(旧久留里藩士の森勝蔵が残した伝説)
・愛知県岡崎市小針町、小針1号墳
・愛知県岡崎市西大友町、大友皇子御陵

経歴や御陵まで未だ何もかも不明な弘文天皇。
真実が明かされる日は来るのでしょうか。