安寧天皇|大豪族・葛城氏が天皇家に大きく関わった時代の天皇
歴代天皇の中でも極端に記述が少なく、「欠史八代」とまで呼ばれるほどのミステリアスさを孕む3代目の天皇。
安寧天皇は特に、日本古来の大豪族・葛城氏との関係を深めた人物でもありました。
第3代 安寧天皇(あんねい)
【生没】 紀元前577年~紀元前510年
【在位】 紀元前549年~紀元前510年
【父】 綏靖天皇(第1子)
【母】 五十鈴依媛命
【諡号】磯城津彦玉手看天皇(シキツヒコタマテミノスメラミコト)
人喰い天皇と言われた2代目綏靖天皇の息子であり、第3代目天皇として即位した安寧天皇。
「安寧」というのは淡海三船(おうみのみふね)が8世紀後半に記したもので、以降この名が広く浸透していきました。
歴代天皇について多くの記述がある「日本書紀」の情報によれば、安寧天皇が立太子されたのは綏靖天皇25年1月7日となっています。
綏靖天皇が崩御したのは33年5月10日。
その2ヶ月後、新たな天皇として即位したのが安寧天皇でした。
その時代、葛城地方をメインとしてその周辺も広く支配していた大豪族・葛城氏は大きな力を持っており
綏靖天皇は、その葛城氏の事代主神の娘を妃に迎えています。
そうして生まれたのが3代目安寧天皇です。
この時代の天皇は「葛城系天皇」と呼ばれ、葛城氏の影響が強かったと推測されており、この時代の系譜にもかなり影響していると言われています。
ちなみに安寧天皇が皇后として迎えたのは、事代主神の子孫・鴨王(かものおおきみ)の娘である渟名底仲媛命(ぬなそこなかつひめのみこと)でした。
安寧天皇2年、拠点を片塩浮孔宮(かたしおのうきあなのみや)へと移し、安寧天皇の政が本格的に始まりました。
歴代天皇の中でも神話のような存在だとされている「欠史八代(けっしはちだい)」。
安寧天皇はそのうちの1人とされており、どんな書物にも安寧天皇の具体的な政やエピソードが記されておらず
本当に実在したのかどうか、どのような天皇だったのか、今だに何もわからずミステリアスな存在となっています。
実は、安寧天皇ら「欠史八代」は古い時代の神を天皇として崇めていたのでは?という説もあります。
畝傍山西南御陰井上陵
幕末の時代、御陵の修繕・修復が行われた際、安寧天皇の御陵は奈良県橿原市吉田町にある畝傍山西南御陰井上陵(うねびやまのひつじさるのみほどのいのえのみささぎ)へと、宮内庁より定められました。
「御陰井」というのは古井戸のことで、陵南エリアに多数存在しており
この井戸も御陵同様、宮内庁の管理下にあります。