持統天皇

天武天皇の皇后として嫁いだ女性・鸕野讃良(うののさらら)。
息子を即位させようとしたものの、結局は自分が女帝とならなければなりませんでした。

第41代 持統天皇(じとう)

持統天皇【諡号】 高天原広野姫天皇、大倭根子天之広野日女尊
【諱】 鸕野讃良(菟野沙羅羅とも)
【異称】 大倭根子天之広野日女尊
【生没】 645年~703年
【在位】 690年~697年
【父】 天智天皇(第2皇女)
【母】 遠智娘(蘇我倉山田石川麻呂の娘)
【陵】 檜隈大内陵(奈良県高市郡明日香村)

女帝誕生の経緯

持統天皇天武天皇が崩御した時、皇后であった鸕野讃良(うののさらら)はすぐに女帝として即位したわけではありませんでした。
天武天皇と皇后の息子である草壁皇子を時期天皇として即位させるべく、そのタイミングを待っていたのです。
そこで皇后は様々なことを行いました。
称制・・・これは皇后という身分のまま政を行う、天皇の代行者となる制度のこと
皇后はこの称制を敷くことで、自分が実権を握ったまま息子の即位を待とうとしました。
さらに皇位継承争いで、ライバルになるであろう大津皇子を謀反アリとして攻め滅ぼしました。

息子がいつ天皇に即位しても大丈夫なように皇后として体制を整えていくものの・・・
息子の草壁皇子はもともと病弱であり、称制担って3年ほどで命を落としてしまいます。

690年、皇后は飛鳥浄御原宮にて持統天皇、女帝として即位しました。

持統天皇の実績

亡き夫・天武天皇の成し遂げられなかった飛鳥浄御原律令を施行した持統天皇。

庚寅年籍という、民衆に戸籍を作成するなどの実績を残しています。

さらに新たな時代を象徴するとして中国式である藤原京を作り遷都したのも持統天皇でした。
天皇に即位して3年後、草壁皇子(くさかべのみこ)の子である軽皇子(持統天皇から見ると孫、のちの文武天皇)に譲位したと伝えられています。

持統天皇

持統天皇から譲位され即位した文武天皇が再開させた遣唐使船

持統天皇時代までおよそ30年もの間、唐との国交は途絶えていました。
けれども文武天皇時代になり、遣唐使船と遣唐使を再び唐に向かわせ、国交が再開されました。

新元号を立てず

孝徳天皇の時代、大化の改新では、「日本国」という国号、そして「天皇」という称号を制定し、日本で最初の元号「大化」を立てました。
孝徳天皇は、次に「白雉」と改元しますが、孝徳天皇が崩御されると、それ以後元号は途絶えてしまいます。

次に元号が立てられたのは天武天皇の時代、「朱鳥」という元号です。

しかし、天武天皇の崩御後、持統天皇は新たな元号を立てず、再び元号は途絶えることになりました。

檜隈大内陵

持統天皇が眠っているとされるのは、遺跡名「野口王墓古墳」、奈良県高市郡明日香村大字野口にある檜隈大内陵(桧隈大内陵:ひのくまのおおうちのみささぎ)です。

上円下方八角の形をしており夫である天武天皇との合葬で、歴代天皇の中でも間違いのない御陵だとも言われています。
大化2年、薄葬令が出された後の崩御だったため、持統天皇は天皇の中でも初めて火葬された天皇でもあります。
天武天皇の棺に寄り添うようにして、持統天皇は銀の骨壷に入れられて葬られました。
けれども1235年、盗掘被害で掘り起こされ、銀の骨壷だけが持ち去られ、持統天皇の遺骨は棄ておかれていたとされています。