欽明天皇

動乱が絶えなかった朝鮮半島とも関わりがあり、日本でも宗教対立が起こった時代。
欽明天皇は5人の皇后と18人の皇子女をもうけた子沢山天皇として記されています。

第29代 欽明天皇(きんめい)

欽明天皇【諡号】 天国排開広庭天皇(あめくにおしはらきひろにわのすめらみこと)
【生没】 509年~571年
【在位】 540年~571年
【父】 継体天皇(第3皇子)
【母】 手白香皇女(仁賢天皇の娘)
【陵】 檜隈坂合陵(奈良県高市郡明日香村)

安閑天皇・宣化天皇とは異母兄弟であった欽明天皇。
この時代には3人が並立していた説や、王権対立があったという説もあります。

この時代に朝鮮半島で大きな力を持っていた百済の聖明王が、欽明天皇に仏像や経典を奉ったという記録も残されています。

欽明天皇時代、長年新羅(しらぎ)の侵攻に抗ってきた任那がとうとう滅ぼされてしまいました。
同時に朝鮮半島は激しい動乱が起こり、日本国内でも宗教対立が勃発。
物部尾輿(もののべのおこし)・中臣鎌子(なかとみのかまこ)ら率いる廃仏派 vs 蘇我稲目率いる崇仏派。
国外も国内も激動の時代だったと言えるでしょう。

欽明天皇は5人の女性を皇后として迎え入れましたが、その中には蘇我稲目の2人の娘・堅塩と小姉を送り込んでおり、蘇我氏の影響力が大きくなったことも予想されます。
そして18人もの子をもうけた欽明天皇。
のちに天皇となった用明・崇峻・推古天皇は子沢山だった欽明天皇の子供達です。

百済の聖明王と関わりがあった欽明天皇

聖明王
聖明王

541年から、欽明天皇は百済(くだら)の聖明王(せいめいおう)と任那復興について意見を交わしていたとされていますが、百済は戦況が思わしくありませんでした。
とうとう552年に平壌と漢城を放棄せねばならず、554年には新羅と百済の戦いの末に聖明王が亡くなってしまいます。
王を亡くした百済を新羅軍が徹底的に攻め、任那は562年に滅亡。

事態を聞いて欽明天皇は激怒し、562年に新羅討伐軍を送り込むものの、新羅軍の仕掛けた罠により退却を余儀なくされます。
同年、欽明天皇は高句麗(こうくり)にも軍を送っており、この事実は『三国史記』に同様の記述が記されています。

『日本書紀』では、10ほどの国が集まった連合国が任那であったと記されています。

欽明天皇は任那復興を願いながらも、道半ばで崩御されました。

檜隈坂合陵

欽明天皇が眠っているとされているのは、現在の奈良県高市郡明日香村大字平田にある檜隈坂合陵(桧隈坂合陵:ひのくまのさかあいのみささぎ)です。
遺跡名「梅山古墳(平田梅山古墳)」はおよそ140mほどの前方後円墳となっています。