仁明天皇

淳和天皇から譲位されて即位した仁明天皇。
目立った業績はなく、この時代に強い印象を残しているのが「藤原北家」だった。

第54代 仁明天皇(にんみょう)

【諱】 正良(まさら)
【生没】 810年~850年
【在位】 833年~850年
【在位中の元号】 天長、承和、嘉祥
【父】 嵯峨天皇(第2皇子)
【母】 橘嘉智子(橘清友の娘)
【陵】 深草陵(京都府京都市伏見区)

承和の変 ~藤原北家が朝廷で権力を増した時代~

仁明天皇仁明天皇は目立った業績が残っていません。
ただ、「承和の変」が起こった時代として知られています。

もともと、仁明天皇時代に皇太子だったのは、先帝・淳和天皇の子である恒貞(つねさだ)でした。
藤原良房が藤原家からの天皇即位を画策します。
仁明天皇と良房の妹・順子(のぶこ)の間に生まれた道康を即位させ用途考えました。

※藤原良房・・・藤原冬嗣の次男

恒貞の側近である伴健岑(とものこわみね)、橘逸勢(たちばなのはやなり)といった人物らに謀反アリと濡れ衣を着せ、隠岐国と伊豆国へ流罪に処し、力を削って恒貞を廃太子することに成功しました。

また藤原北家と敵対していた藤原愛発(ちかなり)や藤原吉野(よしの)らの追放にも成功。
ライバルを左遷したのち、念願であった甥・道康の立太子に成功しました。

この一連の騒動が「承和の変」であり、藤原良房の謀略により藤原北家が朝廷内でどんどん権力を増していきました。

ちなみに、仁明天皇の皇后は順子、妃は沢子という女性で、どちらも藤原出身の女性でした。

深草陵

仁明天皇が眠っているとされているのは、京都府京都市伏見区深草東伊達町にある方形「深草陵(ふかくさのみささぎ)」だとされています。

深草陵

深草陵

けれども仁明天皇の陵墓は一説に過ぎず、現在の御陵は文久の修復で造られたとされています。
一説には、正しい御陵は伏見区深草瓦町にある善福寺周辺とも言われています。