孝安天皇

これまでの天皇には豪族である葛城氏と尾張氏が深く関わってきましたが、第6代孝安天皇の代からは和邇(わに)氏も深く関わってきたと言われています。

第6代 孝安天皇(こうあん)

【諡号】 日本足彦国押人天皇(やまとたらしひこくにおしひとのすめらみこと)
【生没】 紀元前427年~紀元前291年
【在位】 紀元前392年~紀元前291年
【父】 孝昭天皇(第2子)
【母】 世襲足媛命(瀛津世襲の妹)

【諡号】日本足彦国押人天皇

孝安天皇孝安天皇の「孝安」という名は、8世紀後半に活躍した淡海三船(おうみのみふね)が撰進して広まったものであり、文献によって呼び名が異なります。

  • 日本書紀・・・日本足彦国押人天皇
  • 古事記・・・大倭帯日子国押人命

孝安天皇もまた、実在したかどうか不明とされている人物で、歴代天皇の中でも「欠史八代」の1人です。
「国押人(くにおしひと)」という古くから日本て言い伝えられてきた国造りの神様を崇め奉って、天皇の1人とされたのではないか?という説もあります。

諡号についても諸説あり、日本足彦国押人天皇という名は、単に「たらしひこ」と「くにおしひと」を合わせたものなのではないかとも言われています。
歴代天皇の中でも「欠史八代」の1人なので、父である孝昭天皇と同様に詳しいエピソードは残っておらず、謎の多い天皇なのです。

日本書紀に記述がある情報をまとめますと・・・

  • 立太子したのは孝昭天皇68年1月14日のこと。
  • 孝昭天皇が崩御された83年8月5日、その翌年・孝安天皇元年1月7日に天皇へと即位されています。
  • 孝安天皇2年10月、室秋津島宮(むろのあきつしまのみや)へと遷す

孝安天皇の母親は尾張氏の系統であり、都をおいたのは葛城氏がおさめる大和国葛上郡牟婁郷だったことから、この時代にはまだまだ葛城氏や尾張氏といった豪族の影響が色濃いことが分かります。

孝安天皇が后として迎えたのは、同母兄・天足彦国押人命の娘「押媛命(おしひめのみこと)」でした。

この天足彦国押人命という人物は、旧大和国添上郡・添下郡、現在でいうところの奈良盆地の北部をおさめた和邇(和珥)氏の子孫であり、さらに古代朝廷で重職に就いた春日臣・大坂臣・大宅臣・小野臣・柿本臣といった氏族に分かれています。

・・・ちなみにお気付きの方もいらっしゃると思いますが、生没や在位の年数を見て、ちょっと驚きませんか?
孝安天皇が天皇となったのは35歳の時。 崩御されたのは・・・136歳!
なんと101年もの間天皇として政を行ったということになりますね。
古来の日本人は相当な長生きだったのでしょうか?
それともやはり、想像上の神様が天皇となっていたのでしょうか?

玉手丘上陵

孝安天皇が眠る陵(みささぎ)は、宮内庁が奈良県御所市大字玉手にある玉手丘上陵(たまてのおかのえのみささぎ)と定めています。
円丘の形をしていますが、中世の時代に一度、所在が分からなくなったことがありました。

元禄の頃に色々と所在が検討されて、とある古墳が孝安天皇の陵なのではないかと指摘されたものの、『歴帝陵』や『大和志』の説から、現在の場所が陵となりました。
幕末に陵の修繕が行われ、慶応元年3月12日には広橋右衛門督が遣わされて修陵奉告が開催されました。