一条天皇|紫式部や清少納言など宮中文化を盛り上げた天皇

まだまだ衰える気配のない藤原北家の勢力。
天皇主導の政治の道が絶望的となる中で、一条天皇は芸術の才能を発揮し、宮廷文化を盛り上げました。

第66代 一条天皇(いちじょう)

【諡号】 
【諱】 懐仁(やすひと)
【異称】 
【生没】 980年~1011年
【在位】 986年~1011年
【在位中の元号】 寛和、永延、永祚、正暦、長徳、長保、寛弘
【父】 円融天皇(第1皇子)
【母】 藤原詮子(藤原兼家の娘)
【陵】 円融寺北陵(京都府京都市右京区)

芸術家気質 ~宮廷文化を盛り上げた一条天皇~

一条天皇円融天皇の第一皇子として、わずか6歳で皇位についたのが一条天皇でした。
その背景には、絶大な権力を手にした右大臣・藤原兼家(かねいえ)の圧力があり、一条天皇は兼家にとって外孫でもありました。

一条天皇時代、藤原北家の栄華は絶頂と言っても過言ではなく、一条天皇の周囲も藤原北家ばかりで、藤原兼家が亡くなった後も、長男・藤原道隆(みちたか)が関白に就き、藤原道隆が亡くなった後は、その弟である藤原道兼(みちかね)が関白の座に就きました。
さらに藤原道兼が亡くなると、弟・藤原道長(みちなが)がその座に就くという流れでした。
常に藤原北家がそばにいたものの、一条天皇と藤原道長は良好な関係とは言えなかったようです。

一条天皇亡き後、その遺品の中から藤原道長を批判する手紙が発見されました。
藤原道長は当然怒り、この手紙を焼き捨てたとも伝えられています。

一条天皇は容姿端麗だったと伝わっており、芸術家気質でした。
この時代には紫式部「源氏物語」や清少納言「枕草子」など、才女が多く誕生し、平安女流文学が開花しました。

円融寺北陵

一条天皇が眠っているとされるのは、京都府京都市右京区竜安寺朱山にある円丘形式の圓融寺北陵(円融寺北陵:えんゆうじのきたのみささぎ)だとされています。
生前の一条天皇が望んだのは、父である円融天皇の隣への土葬でした。
けれども藤原道長は、一条天皇を荼毘に付した後からそのことを思い出したそうで、時すでに遅し。
荼毘に付した一条天皇の遺骨は、円融寺に納められることとなったのです。