孝徳天皇

長く続いた蘇我氏の繁栄。
中臣鎌足と中大兄皇子らが蘇我入鹿を討ち蘇我蝦夷を自害に追い込むと、女帝・皇極天皇は存命のまま譲位を果たします。
皇極天皇から譲位されて即位したのが、孝徳天皇でした。

第36代 孝徳天皇(こうとく)

孝徳天皇【諡号】 天万豊日天皇(あめよろずとよひのすめらみこと)
【諱】 軽皇子(かるのみこ)
【生没】 596年~654年
【在位】 645年~654年
【在位中の元号】 大化、白雉
【父】 茅渟王
【母】 吉備姫王(欽明天皇の孫)
【陵】 大坂磯長陵(大阪府南河内郡太子町)

乙巳の変が成功した翌日という素早さで、皇極天皇はまず最初に中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)に譲位を打診しました。
けれども中大兄皇子はそれを辞退し、叔父であった軽皇子を推挙しました。
しかし軽皇子は古人大兄皇子が天皇にふさわしい人物だと推挙。
一時天皇の座を譲り合いするという事態に陥るものの、軽皇子から推挙された古人大兄は事態した後、出家するという手段に出ます。
そして天皇の座に就いたのが、軽皇子でした。

難波宮跡孝徳天皇として即位すると、仏法を尊ぶ天皇としてその名が広まります。
貴賤関係なく恩勅を下すことも多々あったとされています。

新たな時代の幕開けにも思えた孝徳天皇の即位でしたが、遷都について周囲と対立してしまいます。

孝徳天皇は大阪市中央区にある難波長柄豊碕宮(なにわのながらのとよさきのみや)に遷都を希望。
けれども先帝の皇極天皇・中大兄皇子・間人皇后・大海人皇子らはこれに反対して大和への遷都を希望。

結局、孝徳天皇だけが新たな都に移り、周囲は中大兄皇子にしたがって大和にある飛鳥河辺行宮へと移ってしまったのです。

1人寂しく難波長柄豊碕宮に移った孝徳天皇は嘆き怒り、皇位を捨てるとまで考えたものの、周囲と和解できず孤独のまま病で亡くなってしまいました。

難波宮模型

大化の改新

大化の改新とは、蘇我入鹿が暗殺された乙巳の変をきっかけに始まった政治的改革です。
当時の倭政権における人民の支配体制を廃止し、豪族中心の政治体制から天皇を中心とする律令国家成立を目指すことを目的としました。

この大化の改新により、現在の「日本」という国号と「天皇」という称号を初めて使用したとされています。

日本で最初の元号制定

これまでは○○天皇○○年との表記でしたが、孝徳天皇は大化の改新のひとつとして日本史上初めて元号を立てました。
これは孝徳天皇元年6月19日によるもので、この日を大化元年6月19日としたのが日本国における元号の始まりとされています。

『日本書紀』によれば、大化元年から翌年にかけて各分野において孝徳天皇は制度改革を行ったと記されています。
後世に大化の改新と呼ばれる改革です。
大化の改新には不明な点が多く、大化改新論争という日本史学上の一大争点になっていますが、元号に関しては未だこれが最初であるとみられています。

穴戸国(長門国)の国司が白雉を献上したことによる祥瑞による改元が行われました。
これ以後、元号は初代の大化から白雉に改元されました。

大坂磯長陵

孝徳天皇が眠っているとされるのは遺跡名「山田上ノ山古墳」、阪府南河内郡太子町大字山田にある大阪磯長陵(おおさかのしながのみささぎ)だとされています。
直径32mほどの円墳・円丘となっており、日本書紀では654年10月に亡くなり、12月にこの御陵に葬られたとされています。

『延喜式』によれば、東西5町・南北5町で守戸3烟を陵域としてあてられたとされています。

ちなみに孝徳天皇の御陵とされる地域は他にもいくつか存在しましたが、元禄の探陵で現在の地が決定されたとのこと。