敏達天皇

任那復興を願いながらも道半ばで倒れてしまった欽明天皇。
その遺言を託されて即位したのが、第二皇子であった敏達天皇でした。

第30代 敏達天皇(びたつ)

【諡号】 渟中倉太珠敷天皇(ぬなくらのふとたましきのすめらみこと)
【生没】 538年~585年
【在位】 572年~585年
【父】 欽明天皇(第2子)
【母】 石姫皇女(宣化天皇の娘)
【陵】 河内磯長中尾陵(大阪府南河内郡太子町)

任那復興と新羅討伐を願いながらも、道半ばで崩御してしまった第29第欽明天皇。
その遺言を受け取り、欽明天皇の願いを成就させようと即位したのが第二子王子の敏達天皇でした。

敏達天皇任那復興のために敏達天皇が重臣に登用したのが、物部尾輿(もののべのおこし)の子の守屋(もりや)と蘇我稲目(そがのいなめ)の子の蘇我馬子(そがのうまこ)。
しかし任那復興はなかなか実現させることができませんでした。

国内では欽明天皇時代に勃発した宗教対立が未だ続いている状態。
その宗教対立が廃仏派優勢となったのは敏達天皇の影響がありました。

宣化天皇の娘・石姫(いしひめ)を母に持つ敏達天皇。
蘇我氏系の皇子女が多数いたことから蘇我氏の影響力は大きかったものの、敏達天皇は蘇我氏ではなく廃仏派であった物部氏サイドについたのです。

そして廃仏派を推し進めるために仏教禁止令を発令し、重臣であった守屋が蘇我氏の仏像や仏殿を焼き払いました。

するとその年、敏達天皇が瘡病で崩御されてしまったことで、大和王朝で勃発していた覇権争いは過激化していくのです。

河内磯長中尾陵

敏達天皇の御陵として定められているのは、現在の阪府南河内郡太子町大字太子にある河内磯長中尾陵(こうちのしながのなかのおのみささぎ)です。
遺跡名「太子西山古墳」でおよそ113mの前方後円墳となっています。
この御陵には敏達天皇とともに、母親の石姫も眠っているとされています。