宣化天皇|地方豪族を重臣として政治を行った連合政権を司る天皇

2019年2月17日

子供がいなかった安閑天皇が崩御すると、同じ母から生まれた弟である宣化天皇が第28代天皇として即位。
ごくわずかな在位であったために業績は残っていないものの、名だたる地方豪族を重臣とした連合政権という特徴があったじだいです。

第28代 宣化天皇(せんか)

宣化天皇【諡号】 武小広国押盾天皇(たけおひろくにおしたてのすめらみこと)
【諱】 檜隈高田皇子(ひのくまのたかたのみこ)
【生没】 467年~539年
【在位】 536年~539年
【父】 継体天皇(第2皇子)
【母】 目子媛(尾張連草香の娘)
【陵】 身狭桃花鳥坂上陵(奈良県橿原市鳥屋町)

宣化天皇が69歳の時、同母兄であった安閑天皇が崩御。
子供がいなかった兄の死により宣化天皇が即位しましたが、高齢だったこともありわずか3年ほどで宣化天皇も崩御されます。
短い在位だったために大きな業績は残せなかったものの、歴代大和王朝の中でも連合政変という特徴が色濃く出ていた時代でもありました。

というのも、宣化天皇の重臣として活躍したのは、名だたる地方豪族ぞろい。

  • 仁賢天皇から長年重臣として政権に関わった大伴金村
  • 継体天皇時代に九州・筑紫の国造磐井(くにのみやつこいわい)が起こした乱を討伐して鎮めた物部麁鹿火(もののべのあらかび)
  • 武内宿禰の子孫である蘇我稲目(そがのいなめ)

地方で大きな力を持つ有力豪族が重臣として天皇に仕えるという連合政権。
宣化天皇自体は歴代天皇の中でも印象が薄いものの、連合政権と言わざるを得ない政権であったことは確かです。

任那への援軍と蘇我氏の全盛

安閑天皇崩御から即位、わずか3年ほどの在位の中で宣化天皇は、筑紫の官家(つくしのみやけ)の整備を進めました。
さらに宣化天皇が大伴金村に命じたのは、新羅(しらぎ)からの侵攻に抗っている任那(みまな)への援軍を送ることでした。

即位したその年、蘇我稲目(そがのいなめ)を大臣へ任命し、蘇我稲目の息子である蘇我馬子(そがのうまこ)も政権へと関わり蘇我氏が全盛時代を迎えます。

身狭桃花鳥坂上陵

宣化天皇の御陵として定められているのは、現在の奈良県橿原市鳥屋町にある身狹桃花鳥坂上陵(身狭桃花鳥坂上陵:むさのつきさかのえのみささぎ)です。

遺跡名「鳥屋ミサンザイ古墳」、およそ138mの前方後円墳で、この御陵には宣化天皇と皇后の橘仲皇女が共に眠っているとされています。