天武天皇|律令国家の基盤を築き、王の中の王と呼ばれた天皇
天智天皇により東宮位を剥奪されて吉野に拠点を移していた天武天皇。
大海人皇子として吉野出家した際には、天智天皇の家臣たちが「虎に翼をつけて野に放ったも同然」として、その存在を危惧しました。
その頃から、王としての才覚を発揮し恐れられていたのかもしれません。
第40代 天武天皇(てんむ)
【諡号】 天渟中原瀛真人天皇(あまぬなはらおきまひとすめらみこと)
【異称】 大海人皇子(おおあまのみこ)
【生没】 631年~686年
【在位】 673年~686年
【在位中の元号】 朱鳥
【父】 舒明天皇(第2皇子)
【母】 宝女王(=皇極・斉明天皇)
【陵】 檜隈大内陵(奈良県高市郡明日香村)
歴代天皇の中でも「王の中の王」とまで呼ばれ、後世に名を残している天武天皇。
抜群の統率力と武芸に秀で、天文・占術も長け、優れた先見性も持っていた人物として伝わっています。
天皇専制を推し進めて律令国家の基盤を築いた天武天皇。
その業績は日本の歴史上においても重要なものばかりでした。
- 官僚機構、官吏登用法の刷新(才能を重視した人事登用)
- 飛鳥浄御原律令
- 八色の姓の制定
- 行政単位の整備
さらに宗教を管理統制する制度も積極的に進めました。
- 伊勢神宮祭祀の整備(現在も行われている式年遷宮の制定など)
- 僧尼統制強化
さらに修史事業として『帝起』や『旧辞』をまとめることにも力を注いでいます。
元号の復活
孝徳天皇以後、空白だった元号を天武天皇の時代に復活させます。
その元号は「朱鳥」。
「しゅちょう」、「すちょう」、「あかみどり」など呼び方は変化していきましたが、日本国の元号としては「大化」「白雉」に続き3つ目に数えられることになります。
天武天皇が崩御すると元号はしばらく使用されなくなりました。
天武天皇が崩御したのは686年とされています。
檜隈大内陵
天武天皇が眠るとされるのは遺跡名「野口王墓古墳」で、奈良県高市郡明日香村大字野口にある檜隈大内陵(桧隈大内陵:ひのくまのおおうちのみささぎ)です。
歴代天皇の御陵は明確でないものも多く、諸説が存在するのが一般的ですが、天武天皇の御陵は檜隈大内陵で間違いがないと断定されている、とても珍しいケースです。
この御陵には持統天皇も共に眠っているのですが、1235年に盗掘があったことが分かっています。
天武天皇は副葬品の多くを盗まれ、棺も暴かれたものの、遺骸はそのままでした。
その時に確認された天武天皇の頭蓋骨には、白髪が残ったままだったとのこと。
一緒に埋葬されていた持統天皇は、火葬ののち銀の骨壷に入れられていたのですが、持統天皇の方は銀の骨壷だけ盗まれ、火葬された遺骨は遺棄してありました。
ちなみにこの盗掘に関する話は藤原定家の『明月記』や、盗掘発覚の際に作られた『阿不幾乃山陵記』に記されており、
石室の様子も知ることができる。
一説によると畝傍陵墓参考地(うねびりょうぼさんこうち)(奈良県橿原市五条野町)も、天武天皇・持統天皇の御陵候補でもあるとのこと。