允恭天皇

歴代天皇の中でも不穏なエピソードや説が多数存在しているのが、允恭天皇です。
その即位の経緯だけでなく、即位していた時代についても不穏なエピソードが幾つか残されています。

第19代 允恭天皇(いんぎょう)

【諡号】 雄朝津間稚子宿禰天皇(おあさづまわくごのすくねのすめらみこと)
【生没】 生年不詳~453年
【在位】 413年~453年
【父】 仁徳天皇(第4皇子)
【母】 磐之媛命(葛城襲津彦の娘)
【陵】 恵我長野北陵(大阪府藤井寺市国府)

実は葛城豪族の出身だった!?

允恭天皇第18代の反正天皇がわずか4年の即位で御崩御され、皇太子もいなかったために空位が続きました。
天皇家に仕えた家臣たちは、後に允恭天皇となる雄朝津間稚子宿禰尊(おあさづまわくごのすくねのすめらみこと)に何度も即位するよう推挙していたものの、本人は病があるとして辞退していました。
けれども忍坂大中姫らの強い要望もあり、允恭天皇元年12月に天皇として即位します。

允恭天皇のエピソードではとても謙虚で慈悲深いという人物像が伝わってきますが、一説には天皇家の血筋ではなく、葛城出身の豪族が王位を奪って即位したのでは? と言われています。

その理由としてあげられるのが、名前に「宿禰(すくね)」という文字が入っているというものでした。
これは当時、力のある豪族がつけていた文字でもあったのです。

允恭天皇が即位してからはこんな不穏なエピソードも伝わっています。

  • 氏姓が乱れてしまった
  • 皇太子である木梨軽皇子が近親相姦していた

允恭天皇時代には、内部や治世が乱れていたのではないかと思われる話が残っているんです。

允恭天皇最大の功績が「盟神探湯」

「盟神探湯」(くかたち): 神明裁判の一種で、熱湯の入った釜に手を入れる方法で、嘘をついていれば火傷を負うというものです。

現代で考えれば「100%火傷するじゃないか!」と指摘が入る裁判の方法ですよね。

允恭天皇の時代、氏姓を偽る人が続出し、身分が低いにも関わらず高い身分の姓を名乗る人が多数いました。

当時、姓というのは豪族である証だったり、重要な職についている証だったり、政治的地位があることの証だったので、氏姓を偽ることは禁じられていました。

嘘がまかり通ったことで、逆に氏姓を失う人も出てきたことから、允恭天皇は盟神探湯を行って嘘を見極めたとされています。
盟神探湯という方法を恐れて嘘を自白する人が増えたことで、氏姓の乱れを治めたとされています。

恵我長野北陵

宮内庁が定めた御陵は「恵我長野北陵(えがのながののきたのみささぎ)」であり、遺跡名は「市ノ山古墳(市野山古墳)」とされています。
大阪府藤井寺市国府1丁目にあり、およそ228mもの大きさの前方後円墳となっています。