崇峻天皇|史上初!臣下・東漢直駒により暗殺された悲劇の天皇

臣下が天皇を暗殺する。
驚愕の一言に尽きますよね。
けれども崇峻天皇は、臣下でありながら巨大な権力を持つ蘇我馬子(そがのうまこ)との対立により暗殺されてしまいます。
これは、日本史上初とも言える、臣下による天皇弑逆でした。

第32代 崇峻天皇(すしゅん)

【諡号】 泊瀬部天皇(はつせべのすめらみこ)
【生没】 生年不詳~592年
【在位】 587年~592年
【父】 欽明天皇(第12皇子)
【母】 小姉君(蘇我稲目の娘)
【陵】 倉梯岡陵(奈良県桜井市大字倉橋)

崇峻天皇用明天皇亡き後、後継者争いが勃発してしまいます。

構図は・・・泊瀬部皇子(蘇我馬子) vs 穴穂部皇子(物部守屋)

物部氏は皇位を奪って蘇我氏の力を削ぐために軍を動かしますが、蘇我馬子と炊屋姫(かしやひめ)らの策略によって穴穂部皇子(あなほべのみこ)が討たれてしまいます。
さらに蘇我氏は本丸へと軍を進め、激しい戦いの末に物部守屋(もののべのもりや)も破れたことで、泊瀬部皇子(はつせべのみこ)が崇峻天皇として即位しました。

厩戸(後の聖徳太子)はこの戦いにも参加しており、戦勝祈願として四天王に祈ったと言われており、戦いに勝利した報告とお礼として建造されたのが、四天王寺だと伝えられています。

第32第天皇として即位した崇峻天皇でしたが、東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)という人物に暗殺されてしまいます。
というのも、影響力を拡大し続けていた蘇我馬子と崇峻天皇の間で衝突が起きたため、蘇我馬子が刺客として東漢直駒を雇ったのです。

現代では全く考えられない話ですが、崇峻天皇は歴史上初の「臣下による天皇弑逆」で命を落とした天皇なのです。

倉梯岡陵

崇峻天皇の御陵として定められているのは、倉梯岡陵(くらはしのおかのみささぎ)です。
奈良県桜井市大字倉橋にあり、円丘状とされています。

元々は奈良県十市郡倉橋村にある古墳・雀塚が崇峻天皇の御陵として定められていましたが、崇峻天皇の位牌があるのが金福寺であるという情報も考慮され、1889年に現在の御陵へ改定となりました。

けれども近年では、崇峻天皇の御陵として赤坂天王山古墳(桜井市倉橋の巨大方墳)や藤ノ木古墳(斑鳩町法隆寺)が崇峻天皇なのではないかという説も注目されています。