雄略天皇|抜群のカリスマ性を持って専制王権を成し遂げた暴君

2021年1月9日

天皇家の歴史の中でも、「最も残虐であった天皇」という衝撃的なエピソードが残る雄略天皇。
皇位するまでに血塗られた選択をし続けた天皇として「大悪天皇(はなはだあしきすめらみこと)」という異名までついている、異例中の異例とも言える人物でしょう。

第21代 雄略天皇(ゆうりゃく)

雄略天皇【諡号】 大泊瀬幼武天皇(おおはつせわかたけるのすめらみこと)
【生没】 419年~479年
【在位】 456年~479年
【父】 允恭天皇(第5皇子)
【母】 忍坂大中姫命(稚浄毛二岐皇子の娘)
【陵】 丹比高鷲原陵(大阪府羽曳野市島泉)

歴史上残虐すぎる天皇といえば雄略天皇。
皇位に就くまでに雄略天皇が殺害した人数は、史実に記されているだけでも5人。
実の兄を2人、眉輪王(まゆわのおおきみ)、市辺押磐皇子(いちのへのおしはのみこ)とその弟(履中天皇の皇子)と、自分が天皇の座につくために敵となり得る人物を手にかけています。

その内容も残虐性が高く、市辺押磐皇子は全身切り刻まれた上に、飼い葉桶(かいばおけ)に詰め込んでいるというのです。
まともな人間とは思えない所業ですが、雄略天皇は感情も起伏が激しかったとされています。
雄略天皇は「朝に会った人物を夕方には殺し、夕方に会ったものは翌朝に殺す」と称されたほどの人物でした。

さらに地方豪族である平群氏、大伴氏、物部氏との政略結婚を進め、巨大な軍事力をも手に入れて、地方で大きな力を持っていた吉備氏に攻め入っていきました。
残虐ながらも抜群のカリスマ性と指導力、圧倒的な行動力を持って専制王権を築き上げました。

「大悪天皇」と呼ばれるほどの暴君

安達吟光画には、イノシシ狩りに興じる雄略天皇が描かれています。
軍事面でも政治面でも高い能力で大和政権を広げていきましたが、いわゆる暴君と呼べる気性の荒さや残虐さも数多く伝えられています。
血の繋がりがある無しも関係なく容赦無く手にかけ、抵抗する豪族にはとことん討ち入り、権力を我が物にするための決断に躊躇はありませんでした。
そんな政権の中では、過ちある独断によって処刑された人々もいたとされており、大悪天皇(はなはだあしきすめらみこと)と呼ばれるほどの人物でした。

その一例として、「日本書紀」にはこんな記述があります。

雄略紀2年10月条
「天皇、心を似て師とし給ふ。誤りて人を殺したまふこと衆し。天下、誹謗りて言う。大悪天皇なり、と。」

雄略天皇と皇后のエピソード

雄略天皇イノシシ狩りに出かけた雄略天皇と皇后、舎人に関するこんなエピソードが残っています。
獲物となったイノシシが激しく暴れまわり、周囲にいた人々は逃げ惑い、天皇のそばに仕えていた舎人は恐怖のあまりに木に登って逃げてしまいます。
そんな舎人(とねり)に対し、雄略天皇はこう命じました。

雄略天皇:「あの猪を弓で止めてとどめを刺せ」

けれども恐怖で怯えきっていた舎人は身動きが取れません。
すると天皇は自分で弓を引いてイノシシを射止めたばかりか、脚で蹴り殺してみせたのです。
そしてイノシシにとどめを刺せなかった舎人のことを切り捨てようとしたそうな。

その時、舎人はこんな歌を詠みました。

「やすみしし わが大君の 遊ばしし 猪の 怒声畏(うたきかしこ)み わが逃げのぼりし 在丘(ありを)の上の 榛が枝 あせを」

歌の訳:(やすみすしは大君の枕詞)私の大君が追い立てたさせた猪が唸り鳴き迫って来て、あまりに強くて、逃げて樹に登った。あの丘の上の榛の樹の枝。

舎人の詠んだ歌を聞いた皇后は、あまりにも哀れに思い雄略天皇に進言しました。

皇后:「陛下が狩りをお好みになれるのはけっこうでございます。ですが、ご趣味のために舎人を斬るという行為は獣と変わりないではないですか」

皇后の進言を聞いた天皇は

雄略天皇:「楽しきかな。人は狩りをして獣を得るが、朕は狩りをしてよい助言を得た」

と語り、舎人を許したのです。

丹比高鷲原陵

雄略天皇の御陵として定められているのは丹比高鷲原陵(たじひのたかわしのはらのみささぎ)。
「島泉丸山古墳(高鷲丸山古墳)」・「島泉平塚古墳(高鷲平塚古墳)」と呼ばれる遺跡で、大阪府羽曳野市島泉8丁目にある直径およそ75mの円墳と、一辺がおよそ50mほどある方墳の2基で作られています。

ちなみにもう1件、雄略天皇の御陵ではないかと言われている場所があります。
大塚陵墓参考地(おおつかりょうぼさんこうち)、「河内大塚山古墳」と呼ばれる遺跡名で、大阪府松原市西大塚にあります。
長さがおよそ335mもある前方後円墳です。
しかしこの遺跡には埴輪などの特徴がなく、前方後円墳終末期の可能性も含んでおり、雄略天皇が亡くなって御陵が作られた時期とは重ならないとも言われています。