垂仁天皇|日本を誇る神社・伊勢神宮は垂仁天皇が始まりだった

2021年1月9日

古くから伝わっている習慣の幾つかは、垂仁天皇が起源として現在まで伝わっています。

日本人の多くが足を運ぶ格式高き伊勢神宮も、垂仁天皇が建立を命じたとされているのです。

第11代 垂仁天皇(すいにん)

垂仁天皇【諡号】 活目入彦五十狭茅天皇(いくめいりひこいさちのすめらみこと)
【生没】 紀元前69年~後70年
【在位】 紀元前29年~後70年
【父】 崇神天皇(第3皇子)
【母】 御間城姫(大彦命の娘)

現在でも伝わっているもので、垂仁天皇が起源だとされているものが多数あります。

さらに垂仁天皇のエピソードとして語り継がれているものの多くは、歴代天皇にも負けず劣らずな仰天エピソードが勢ぞろいしています。

最初の皇后「狭穂姫命」との仰天エピソード

垂仁天皇が初めて皇后として迎えた女性は「狭穂姫命(さほひめのみこと)」という方。
しかし皇后の兄が叛乱を起こし、狭穂姫命も兄と行動を共にしていました。
最後は兄と妹はともに炎に包まれて自害するのですが、狭穂姫命はその炎の中で垂仁天皇との子供を出産しているのです。
現代では考えられない衝撃の出産エピソードですよね。
ちなみに炎の中で生まれた男の子は幸いにも無事だったため、垂仁天皇が「誉津別命(ほむつわけのみこと)」と名付けて育てています。

誉津別皇子にまつわるエピソード

最初の皇后が炎の中で産んだとされる誉津別命は、父親である垂仁天皇に深く愛されて育てられてすくすくと成長しますが、史実の中では「障害があったのでは?」とされるエピソードも綴られています。

誉津別命は皇子として成長するも、出雲大社からの祟りをもらったそうで、30歳になってあごひげが胸に届くほどの大人になっても、言葉を話すことができなかったそうな。

けれども垂仁23年、30歳になった誉津別皇子は、突然こんな言葉を発したそうです。

誉津別皇子:≪鵠(白鳥)を観て≫ 是何者ぞ

その後、出雲大社を参拝したことで、言葉を話せるようになったと伝わっています。

垂仁天皇がきっかけで始まった相撲

日本の国技でもある相撲も、垂仁天皇が起源だというエピソードがあります。

垂仁天皇7年7月のことでした。
側近が垂仁天皇にこんな話をします。

側近A:「当麻村に当麻蹶速(たいまのけはや)という、とても強く逞しい人物がいて、力では自分に敵う者はいないと言っているそうですよ」

この話に垂仁天皇は大いに興味を持ったそうな。

垂仁天皇:「本当にその者に敵うものはいないのだろうか?」

すると、別の側近からこんな話が飛び出しました。

側近B:「出雲国に野見宿禰(のみのすくね)という強い者がいますよ。 2人を取り組ませてみてはいかがですか?」

すぐさま倭直の祖である長尾市(ながおち)が遣いとして出立し、野見宿禰を呼び寄せました。

天皇の前で2人の強者は向かい合い、足で蹴り合いをはじめました。
勝者は・・・野見宿禰。
強烈な一撃で当麻蹶速の足の骨を折ってみせ、さらにそのまま踏み殺して勝利したのです。
垂仁天皇は取り組みに勝利した野見宿禰へ、当麻蹶速の土地を与えたのです。
この取り組みが今では国技である相撲の起源という説となっています。

伊勢神宮建立も垂仁天皇が始まりだった!?

垂仁天皇は皇祖神である天照大神を祀るのにふさわしい場所を探しており、倭姫を旅に出しています。
垂仁天皇25年のこと。

垂仁天皇:「先帝の崇神天皇は、天神地祇を祀られ、人民は富み栄え天下太平であった。 今、私の世になって天神地祇の祭祀をいかにしようか」

その言葉を聞いていたのは武淳河別(たけぬなかわわけ)・彦国葺(ひこくにぶく)・大鹿島(おおかしま)・十千根(とおちね)・武日(たけひ)という5人の大夫でした。
然るべき場所に天照大神を祀るため、天照大神を豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)から、倭姫命(やまとひめのみこと)へと託し、倭姫命は旅に出ることになります。

元々は笠縫邑(かさぬいむら)に座していた天照大神ですが、遷座場所を求めて近江・美濃・伊勢とか各地を巡っていきました。
伊勢国に着いた時、天照大神は倭姫命にこう伝えました。

天照大神:「この神風の伊勢国は常世の波が押し寄せる国である。 大和から片寄った遠い国で美しい国である。 此の国に居たいと思う」

その言葉の通り、社をいせに建立し、五十鈴川のほとりに斎王宮がたち、天照大神が祀られる伊勢神社が誕生したとされています。

埴輪の起源

垂仁天皇は垂仁28年に弟である倭彦命(やまとひこのみこと)を亡くしました。
弟のために作られた御陵には、弟に生前仕えていた寵臣が集められて、弟の亡骸と共に生き埋めにされていました。
実はこの時、生き埋めになった寵臣たちは数日経過しても生きたままで一日中泣く声が響き渡っていたそうです。
そして寵臣たちが生き埋めの状態で亡くなると、遺体が腐敗して悪臭が蔓延し、獣が群がって死肉を掘り返して食べているという惨状になったとされています。
生き埋めになった者たちの泣き叫ぶ声や、御陵に起きた惨状を知った垂仁天皇は側近たちにこう話したとされています。

垂仁天皇:「生前大事にしていた寵臣であっても、ともに生き埋めにして殉死させるのはとても痛ましい。 これが古くから続く風習といえど、悪しき風習であって続けるべき者ではない。 これからは殉死させてはならぬ」

その4年後、皇后の比婆須比売命(ひばすひめのみこと)が亡くなった際に天皇は葬儀について悩みました。

垂仁天皇:「殉死はあまりに痛ましいと知った。  けれども皇后の葬儀はどうしよう」

そんな天皇に提案をしたのは野見宿禰でした。
出雲国から土師百人を呼び寄せた野見宿禰は、土師に支持して、土で馬や人を多数作らせました。

野見宿禰:「これからの葬儀は、これらの土物を陵墓に立ててはいかがですか?」

その時に献上された土でできた人や馬が埴輪の起源となっており、野見宿禰は土部臣の祖にもなったのです。

石上神宮でのエピソード

垂仁39年、剣千振を作った五十瓊敷命(いにしきのみこと)は石上神宮へこれを納め、神宝も司りました。
垂仁87年、年老いた五十瓊敷命は妹である大中姫命(おおなかつひめ)にこう言いました。

五十瓊敷命:「私ももう年です。 この先、神宝を司っていくことも難しい。 これからはあなたが神宝を司る役目をしなさい」

しかし妹の大中姫命にとっても、その役目は難しいものでした。

大中姫命:「私もか弱い女なので、丈高い神庫を登ることができません……」

すると五十瓊敷命は妹のために梯子を作り、その梯子のおかげで妹の大中姫命は神宝を物部十千根大連に納めることができるようになりました。

菅原伏見東陵

「宝来山古墳」と呼ばれる垂仁天皇の御陵は、奈良県奈良市尼辻西町にある菅原伏見東陵(すがわらのふしみのひがしのみささぎ)と定められています。
前方後円墳は227m、南東には小島があり、この小島は田道間守の墓だと言われています。
そこはそもそも濠の堤上に位置していた場所だったのですが、貯水目的で拡張して水に沈み、現在は島状になっています。
けれども戸田忠至らが作った修陵図には、田道間守の墓は描かれていません。