崇神天皇

欠史八代最後の天皇、開化天皇からその座を引き継いだ第10代崇神天皇。
これまでと打って変わって様々な功績が残っており、事実上の初代天皇とも称されている人物です。

第10代 崇神天皇(すうじん)

【生没】 紀元前148年~紀元前29年
【在位】 紀元前97年~紀元前29年
【父】 開花天皇(第2子)
【母】 伊香色謎命(大綜麻杵の娘)

事実上の初代天皇、実在していたという説がかなり有力なのですが、生没を見てみると119歳で崩御となっています。
即位したのが51歳、68年間も天皇の座に就いていたとされていますから、現代の寿命と比較してもかなりの長寿ですね。

多くのエピソードを残している崇神天皇

崇神天皇

開化天皇10年、開化天皇と伊香色謎命(いかがしこめのみこと)の第二子として誕生した崇神天皇は、立太子となったのは開化天皇28年1月5日とされています。
開化天皇が崩御されたのが60年4月9日。
翌年に天皇として即位されました。
諡号は日本書紀で「御間城入彦五十瓊殖天皇(みまきいりびこいにえのすめらのみこと)」。
四道将軍を各地に遣わして平定させ、日本初となる課税を始めたのも崇神天皇です。
国家体制の礎を築いた天皇として「御肇國天皇(はつくにしらすすめらのみこと)」とも呼ばれます。

この「はつくにしらす」というのは、初代の神武天皇と同じ諡号で、学者の間では事実上の初代天皇・大王(おおきみ)だという説、または葛城王朝から三輪王朝への転換となった始祖という説も根強く残っています。

特に崇神天皇から大王家が始まったという説はかなり有力となっているのです。

伊勢神宮のはじまり、そして三輪山のはじまり

崇神天皇のエピソードが記載されている『崇神紀』を読んでみると、事あるごとに三輪山大物主が登場します。

崇神天皇の時代に、民衆の間で流行病が大流行してしまい、人民の半数が命を落としてしまいます。
病で世が乱れ、各地で流浪者が続出し、反乱もあちこちで勃発する事態。

崇神天皇は6年に疫病鎮静のために、宮中にて祀っていた「天照大神」と「倭大国魂神」を別の場所に移すことを決意します。
豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)に天照大神を笠縫邑(かさぬいのむら)で祀るよう命じ、その後も場所を変えつつ、伊勢神宮にご鎮座されたのが垂仁天皇25年のことでした。
そうです、私たちが知る伊勢神宮の始まりです。

倭大国魂神(やまとのおおくにたまのかみ)は渟名城入媛命(ぬなきいりびめのみこと)によって長岡岬にて祀ったものの、渟名城入媛命はなんと髪の毛がどんどん抜け落ちてしまい、体もどんどんやせ細っていってしまったそうな。

そこで天皇の命により神浅茅原(かむあさぢはら)が占ったところ、その晩に倭迹速神浅茅原目妙姫、大水口宿禰、伊勢麻績君が同じ夢を見たという。

夢に現れたのは大物主でこうお告げをしたそうです。

「国が治まらないのは、吾が意思である。もし吾が子の太田田根子(おほたたねこ)を以って、吾を祭れば、国は平和となり、海外の国も帰伏する」

この夢でのお告げどおりに、和泉・陶邑(すえのむら)から太田田根子を呼び寄せて大物主を祀らせました。
この大田田根子という人物は、大物主が父で活玉依姫が母だと語りました。
さらに大物主の大物主の持つ荒ぶる魂は市磯長尾市が祀りました。
夢でのお告げどおりにしたところ、疫病が治り五穀豊穣となったという。

このように、崇神天皇の指示が、現代の伊勢神宮が誕生するきっかけとなり、三輪山大物主の祭主として大神氏が誕生しました。

各地に四道将軍を遣わして支配を広げていった崇神天皇

事実上の初代とされる崇神天皇は、4人の将軍「四道将軍」を設けています。

  • 大彦命(おおびこのみこと)・・・8代孝元天皇の息子
  • 武渟川別命(たけぬなかわわけのみこと)・・・大彦命の息子
  • 吉備津彦命(きびつひこのみこと)・・・7代孝霊天皇の息子
  • 彦坐王(ひこいますのみこ)・・・9代開化天皇の第3皇子

四道将軍は全員が天皇の血を引く人物です。

崇神天皇の命により将軍はそれぞれ各地の平定へと向かいました。

  • 大彦命は北陸道へ。
  • 武渟川別は東海道へ。
  • 吉備津彦命は西海道へ。
  • 彦坐王は丹波道へ。

天皇の命に背くものは討伐しながらそれぞれのエリアを平定していきますが、道中で大彦命が不吉な歌を詠む少女と出会い、和珥坂(わにのさか)から急遽Uターンして天皇に報告します。
倭迹迹日百襲姫命が占ったところ武埴安彦(たけはにやすびこ)とその妻・吾田媛が謀反を企てていることが判明します。
武埴安彦は山背から攻め入り、妻は大阪から都へと討ち入る計画だったのですが、謀反の企てを知った天皇は四道将軍の吉備津彦命と大彦命に討伐を命じます。
武埴安彦には大彦命と彦国葺(ひこくにぶく)が討伐へと向かい、妻・吾田媛を討伐したのは吉備津彦命でした。

謀反を討伐して、四道将軍は再び各地への平定へと旅立ちました。

四道将軍が各地で賊軍を従えて、平定の報告を天皇へと持ち帰ったのが、崇神天皇11年4月のことでした。

崇神天皇の功績

崇神天皇の指示により、人民の戸口調査が行われました。
さらに税制の始まりともなる「弭調(ゆはずみのみつぎ)」や「手末調(たなすえのみつぎ)」を施行しました。

さらに海辺に住む住人が困っているという話を聞けば、船を作るように国に命じました。
田園で水が不足していると聞けば、依網池や酒折池といった池や溝を開き、農業にも力を入れたのです。

山辺道勾岡上陵

崇神天皇が眠っている陵は、奈良県天理市柳本町にある山邊道勾岡上陵(やまのべのみちのまがりのおかのえのみささぎ)です。
とても巨大な陵で墳丘の長さが242メートルにもなる前方後円墳です。
「行燈山古墳」とも呼ばれる巨大な陵墓から、かなり力があることが分かります。
堤防の上には松並木が綺麗に並び、周濠には水が張られています。
崇神天皇の陵は帆立貝形古墳のようになっており周囲も美しい景観となっていますが、幕末のころ、柳本藩が大改修と潅漑利用をかねて整えたものであり、当初とは形が違います。

江戸の頃は、崇神天皇の陵墓は渋谷向山古墳という説があり、山辺道勾岡上陵の少し前にできた全長220メートルの前方後円墳である西殿塚古墳こそが、崇神天皇の陵なのではないかという説もあります。