嵯峨天皇

嵯峨天皇は子だくさんの天皇としても知られており平穏な時代の皇族の暮らしがうかがえます。

安定した治世の中、あまり印象深い業績はありませんが、文化面では後の時代に「空海と並ぶほどと称される有能な能書家」として知られています。

第52代 嵯峨天皇(さが)

【諱】 神野(かみの)
【生没】 786年~842年
【在位】 809~823年
【在位中の元号】 大同、弘仁
【父】 桓武天皇(第2皇子)
【母】 藤原乙牟漏(藤原良継の娘)
【陵】 嵯峨山上陵(京都府京都市右京区)

空海と並ぶほどの有名な能書家

第51代平城天皇の弟であり、病に伏せた兄の後に即位しました。

書と漢詩の才能に優れていたと言われており、空海と並んで平安時代の有名な能書家・三筆の一角です。
空海とも交流があったと言われています。
「三筆」と称されるのは、これよりもっと後の時代、江戸時代前期の話です。
延宝6年(1678年)に儒学者・本草学者として知られる貝原益軒とその弟子たちが記した「和漢名数」に「三筆」と記されたのが初見であるという。

また、嵯峨天皇は女性が大好きだったことも有名で、皇后や妃、女御、更衣、宮人も含めて30人ほどの女性と関係を持っていたと記されています。
その結果、子供の数は50人にもなったとか。

波乱続きだった先帝の時代とは異なり、嵯峨天皇の治世は安定していました。
文化面では勅撰漢詩集『凌雲集』が登場し、唐風文化も広まりました。
けれども財政難が深刻化した時代でもあります。

その原因となったのは、先帝で兄であった桓武天皇の蝦夷討伐や2度にわたる遷都。
家臣の藤原冬嗣らが財政緊縮策を訴えるも、嵯峨天皇はその意見を取り入れませんでした。
それどころか冷然院、嵯峨院の造営を命じたことで、より財政難は悪化していきます。

嵯峨天皇の実績

嵯峨天皇治安維持のために嵯峨天皇が設けたのが「検非違使」でした。
現代で言うところの警察や裁判官のような権利を持った役職なのですが、律令には決まりがないもので、必要とされた時に役職を整えていくと言う形だったとされています。

というのも、嵯峨天皇時代になって律令制度にいくつもの矛盾があることが判明したのです。
そのため、嵯峨天皇は律令制度を再編成した「弘仁格式(こうにんきゃくしき)」を作り、時代にあった政治をしようとしたのです。

その他にも公営田(くえいでん)という制度を設けたのも嵯峨天皇でした。
国が持つ田畑を、農民を雇って耕させ、食料も与えるという制度です。

政治に関する実績を積んだ嵯峨天皇は、譲位して上皇となった後も政治に介入します。
その期間は30年にも及んだとか。

嵯峨山上陵

嵯峨天皇が眠っているとされているのは、京都府京都市右京区北嵯峨朝原山町にある円丘「嵯峨山上陵(さがのやまのえのみささぎ)」です。
承和9年(842年)7月17日に埋葬された嵯峨天皇。

遺言に則って国忌荷前が置かれなかったことから、「延喜諸陵式」に載ることはありませんでした。
所在が不明になったことがあるのもの、諸陵探査により現在の地であるという説が有力となりました。