冷泉天皇|安和の変により二年で譲位した儚い天皇
17歳で即位するも、わずか2年後の19歳で譲位した冷泉天皇。
その原因として、幼い頃から気の病を患ったがための奇行が目立ったためだという説が有力です。
第63代 冷泉天皇(れいぜい)
【諡号】 ―
【諱】 憲平(のりひら)
【異称】 ―
【生没】 950年~1011年
【在位】 967年~969年
【在位中の元号】 康保、安和
【父】 村上天皇(第2皇子)
【母】 藤原安子(藤原師輔の娘)
【陵】 桜本陵(京都府京都市左京区)
たった2年で譲位した冷泉天皇
幼い頃は憲平親王と呼ばれていた冷泉天皇。
幼くして立太子したものの、精神障害を患っていたとされており、数々の奇行がエピソードとして伝えられています。
幼い頃からの奇行が原因で、即位はすべきでないという意見も上がりました。
けれども、母方祖父である藤原師輔という、藤原北家の権力者だった頃から冷泉天皇は17歳で第63代天皇として即位しました。
けれども政治を行うことはできず、関白太政大臣に就いた藤原実頼が実権を握っていたようです。
冷泉天皇の皇太子問題において、藤原氏が左大臣・源高明(たかあきら)を謀り排斥しています。
これは「安和の変」と呼ばれました。
およそ2年ほどで譲位した冷泉天皇は、その後は長生きして61歳で崩御されました。
冷泉天皇が起こした奇行の数々
幼い頃から気の病を患い、奇行が絶えなかったと言われている冷泉天皇。
そのエピソードが、大江匡房の記した『江記』に残されています。
- 日がな1日蹴鞠をし続け、足が傷だらけになってもやめなかった
- 父である村上天皇から受け取った手紙。その返事には男性の陰茎をでかでかと書いた絵を送った
- 清涼殿のそばにある番小屋の屋根に登って座り込んでいた
- 病で伏せている時も、大きな声で歌を歌った
- 譲位して住んでいた御所が火事になっても、避難する牛舎の中で大声で歌を歌っていた
冷泉天皇がたった2年で譲位となった経緯は、摂政・藤原実頼と外戚関係でなかったことと、後継候補だった為平親王が伯父である源高明を舅としたことなどが影響したと言われています。
これらの出来事が「安和の変」のきっかけとなり、わずか2年で退位することとなったのです。
冷泉天皇は奇行がなければ、見た目は容姿端麗で美しかったとも伝えられています。
冷泉天皇が気の病から奇行を振る舞うようになったのは、「大鏡」では地位を奪われた藤原元方の祟りだと記されています。
安和の変
病弱で奇行が目立った冷泉天皇には、皇子がいませんでした。
早く世継ぎを作らなければと、東宮を迎える話が持ち上がり、村上天皇と皇后・安子の間に生まれた為平親王と守平親王が候補に上がりました。
冷泉天皇とは同母弟であり、特に為平親王は東宮として最有力候補。
けれども実際に東宮となったのは守平親王でした。
左大臣・源高明の権力がさらに大きくなることを恐れた藤原氏の圧力が働いたとされています。
「橘繁延と源連が謀反を起こそうとしている」
その密告をもたらしたのは、源満仲と藤原善時でした。
この密告により、右大臣師尹など公卿が集まって緊急会議が開かれました。
そして関白・藤原実頼に密告文を提出し、検非違使に橘繁延と僧・蓮茂を捕らえさせ訊問を行いました。
さらに、源満仲の弟・源満季や藤原秀郷の子・藤原千晴らを捕まえて禁獄しています。
安和の変では、その他にも左大臣・源高明が謀反に加担していたとされ、太宰員外権帥へと左遷されました。
源高明は長男の忠賢と共に出家したいと申し出るも、その願いは聞き入れられませんでした。
願いも虚しく検非違使に捉えられた源高明は、九州へと左遷されます。
諸国へは「源連と平貞節の追討」が命ぜられ、橘繁延は土佐国へ、蓮茂は佐渡国へ、藤原千晴は隠岐国へと流されました。
桜本陵
冷泉天皇が眠っているのは京都府京都市左京区鹿ヶ谷法然院町・鹿ヶ谷西寺ノ前町の櫻本陵(桜本陵:さくらもとのみささぎ)だとされています。
『日本紀略』では桜本寺前野で火葬されて遺骨は山傍に埋葬されたと記されています。
現在の陵に治定されたのは明治期になってからとのこと。