村上天皇|天皇親政の手本と称された天暦の治と鶯宿梅
天皇主導の天皇親政を目指し、国家財政の再建に務め、多くの功績を残したのが、第62代村上天皇です。
第62代 村上天皇(むらかみ)
【諡号】 ―
【諱】 成明(なりあきら)
【異称】 村上の先帝
【生没】 926年~967年
【在位】 946年~967年
【在位中の元号】 天慶、天暦、天徳、応和、康保
【父】 醍醐天皇(第14皇子)
【母】 藤原穏子(藤原基経の娘)
【陵】 村上陵(京都府京都市右京区)
再び天皇が主導となる政治を目指す
兄である朱雀天皇から譲位されて即位した村上天皇。
長く関白の地位に就いた藤原忠平が亡くなると、村上天皇は摂政や関白を置くことなく再び天皇が政治を主導すべく、天皇親政を整えようと試みます。
平将門の乱・藤原純友の乱で圧迫された財政を再建するため、倹約例を発令し、歳出の削減や徴税の徹底を行いました。
さらに人事考課を厳格化させるなど、多くの功績を残しました。
このことから、村上天皇時代は「天暦の治」と呼ばれ、醍醐天皇時代の「延喜の治」と併せて、天皇親政の手本とまで称されました。
けれども、実際は左右大臣・藤原実頼と藤原師輔兄弟が実権を握っていたとも言われています。
多くの女性を迎えていた村上天皇には、なんと19人もの子供がいました。
そんな後宮のトップにたったのは、藤原師輔の娘である藤原安子で、のちに天皇に即位する冷泉天皇と円融天皇の母となりました。
「鶯宿梅」などの平安文化を築き上げた功績
村上天皇は文化面でも多くの功績を残しました。
- 951年(天歴5年)『後撰和歌集』の編纂
- 960年(天徳4年)内裏歌合を開催
自身も歌人として活躍し、『清涼記』の著者だとも伝えられています。
さらに琵琶や琴の腕も確かだったことから、平安文化を築き上げました。
特に村上天皇で有名なのが、『大鏡』(道長下)の「鶯宿梅(おうしゅくばい)」でしょう。
<鶯宿梅>
清涼殿の前に咲き誇っていた梅の木が枯れたため、村上天皇の勅命で代わりとなるものが探されることになりました。
代わりとなるものを探すのは難航しましたが、都のはずれにある民家に、素晴らしい紅梅があることが分かりました。
天皇の勅命だと説明し、紅梅を掘り出して清涼殿へと運ぼうと試みますが、紅梅の持ち主が、天皇からの文を短冊にして、紅梅の枝へと結びました。
掘り返されて運ばれた紅梅は、清涼殿の前に移植されました。
すると、新たにやってきた紅梅は、以前の梅の木よりも見事に咲き誇り、天皇は美しい梅の木に大変喜んだそう。
けれども、天皇は梅の木の枝に結ばれた短冊を見つけました。
この短冊はなんだろうと、天皇が開けてみると、そこには女性の字でこう書かれていたそうです。
「勅なればいともかしこし鶯の 宿はと問はばいかが答へむ」
訳:
勅命とあらばたいへんおそれ多いことなのでお断りはできませんが、もしこの紅梅に毎年巣を作るウグイスが帰ってきて我が家はどうなってしまったかと尋ねられたら、さて私はどのように答えたらよいのでしょう
村上天皇はこの歌を詠んで、書いた女性は只者ではないと確信。
紅梅の元の持ち主で歌を詠んだ女性について調べさせたところ、紀貫之の娘・紀内侍(きのないし)だということが判明しました。
紀内侍は、父である紀貫之が亡くなったあとは、父の形見として紅梅の木を大切に愛でていたのです。
その事実を知った村上天皇は、残念なことをしてしまったと胸を痛めたそう。
村上天皇のエピソードとして有名なこの鶯宿梅の歌は、『拾遺和歌集』に載っています。
村上陵
村上天皇が眠っているとされているのは、京都府京都市右京区鳴滝宇多野谷の村上陵(むらかみのみささぎ)だとされています。
円丘形式の御陵ですが、『日本紀略』では山城国葛野郡田邑郷北中尾に葬られたとの一文が見られます。