孝昭天皇

これまで葛城氏や賀茂氏の力が天皇家に強く影響してきた天皇家。
第5代孝昭天皇の時代には、現代でいう所の愛知県周辺を治めていた古代豪族・尾張氏とも関係を深めたと言われています。

第5代 孝昭天皇(こうしょう)

【生没】 紀元前506年~紀元前393年
【在位】 紀元前475年~紀元前393年
【父】 懿徳天皇(第2子)
【母】 天豐津媛命

【諡号】観松彦香殖稲天皇

孝昭天皇8世紀後半、淡海三船(おうみのみふね)が「孝昭」という名を奉ったと言われており、実在した人物ではないという説もあります。
というのも天皇家でも「欠史八代」と呼ばれる、古い神「香殖稲」を奉ったものが天皇として崇められるようになったという説も有名です。
古事記では御真津日子訶恵志泥命(みまつひこかえしねのすめらみこと)
日本書紀では観松彦香殖稲天皇(みまつひこかえしねのすめらみこと)と記されています。

懿徳天皇が崩御されたのは懿徳天皇34年9月8日、その翌年が孝昭天皇元年となり、孝昭天皇が即位したのは元年1月9日だとされています。

ちなみに、日本書紀によると懿徳天皇22年2月12日に立太子となり、即位してからは宮を葛城郡掖上池心宮に遷しています。
宮を遷した地域というのが、大豪族・葛城氏の統治していたエリアでした。
このことから孝昭天皇の時代にも、葛城市や事代主神との繋がりがかなり深いことが伺えます。

さらに孝昭天皇は、新たに古代豪族・尾張氏との関わりを持ったともされているのです。
尾張氏は火明命(あめのほのあかりのみこと)という日本神話に登場する神を祖先とする一族で、畿内を拠点としている豪族でした。
孝昭天皇の后となったのは世襲足媛(よそたらしひめ)という女性で、后の兄は瀛津世襲(おきつよそ)、尾張氏の遠縁にあたる人物です。
孝昭天皇と后の関係から、畿内政権では尾張氏との関係が深まったことがわかります。

掖上博多山上陵

元禄の頃に御陵探しが行われ、奈良県御所市大字三室の掖上博多山上陵(わきのかみのはかたのやまのえのみささぎ)が、孝昭天皇の御陵だと定められました。

この御陵のすぐそばに孝昭天皇が祀られている孝昭天皇神社・孝昭宮があります。

この神社はもともと丘の上にありましたが、幕末に行われた修繕の際に、今の場所に移されました。