孝元天皇|稲荷山古墳から出土した国宝の鉄拳には息子の名!

歴代天皇の中でも「欠史八代」といえば、実在したかどうかすら定かではないミステリアスさがあります。

けれども第8代孝元天皇の場合、その息子の名が記された宝剣が出土しているため、実在の可能性が高いと言われているのです。

第8代 孝元天皇(こうげん)

【生没】 紀元前273年~紀元前158年
【在位】 紀元前214年~紀元前158年
【父】 孝霊天皇(第1子)
【母】 細媛命(磯城県主大目の娘)

【諡号】大日本根子彦国牽天皇

孝元天皇欠史八代の1人であり、詳しい功績が残っていない孝元天皇。

  • 日本書紀・・・大日本根子彦国牽天皇(おおやまとねこひこくにくるのすめらみこと)
  • 古事記・・・大倭根子日子国玖琉命(おおやまとねこひこくにくるのみこと)

孝霊天皇の第一子であり、次男は吉備津彦命(きびつひこのみこと)、桃太郎のモデルとなった人物です。

孝元天皇が立太子したのは孝霊天皇36年1月1日のこと。
その40年後となる孝霊天皇76年2月8日に孝霊天皇が崩御され、翌年が孝元天皇元年となりました。
その年の1月14日に即位されました。
軽境原宮(かるのさかいはらのみや)にへと遷宮したのは孝元天皇4年3月12日のこと。

ちなみに孝元天皇も生没と在位をご覧ください。
紀元前273年に生まれて即位したのが紀元前214年、この時点で59歳。
その後56年もの間天皇として祭り事を行い、崩御されたのは紀元前158年。
115歳で亡くなったとされています。
天皇家は長生きの家系だったのでしょうか?

「孝元」という名前は、8世紀後半から広く使われるようになったもので、淡海三船(おうみのみふね)という人物が撰進したものです。
実在していたのか不明だとされ、「国牽(くにくる)」という古い日本の神を奉り天皇となったのでは?という説があります。

ただし、欠史八代の中でも生存説が根強い天皇でもあります。

稲荷山古墳から出土した宝剣には・・・

埼玉県行田市に実在する稲荷山古墳。
発掘するに当たって鉄拳が出土して国宝となっていますが、この宝剣には大彦(おほひこ=意富比垝とも書く)という名が記されています。
この名は孝元天皇の第一子である皇子の名であり、9代開化天皇の兄の名だと推測されています。

宝剣に記されているのは・・・【辛亥年七月中記乎獲居臣上祖名意富比垝】という文字。
この文字の中の「意富比垝(おほひこ)」という人物は、孝元天皇の息子であるという見方だけでなく、日本書紀に登場する崇神天皇紀で登場する四道将軍の1人「大彦命」という見方もあります。

孝元天皇の息子「大彦」=祟神天皇の四道将軍「大彦命」だとするならば、欠史八代で実在したかも不明と言われてきた孝元天皇も実在したと言えるでしょう。
さらに、歴史上で実在したとされる初代天皇・祟神天皇の皇后が、大津彦命の娘・御間城姫命(きまきひめのみこと)なのです。
このような史実から、葛城氏の影響力が大きかった歴代天王から、孝霊天皇・孝元天皇は祟神の系統となったという説も存在します。

大彦命

稲荷山古墳から出土した宝剣にその名が記されているとされている大彦命(おおひこのみこと)ですが、孝元天皇と皇后・鬱色謎命(うつしこめのみこと、内色許売命)の第一子であり、大彦命の娘は第11代垂仁天皇の母です。
第11代垂仁天皇からみると、大彦命は外祖父に当たります。

孝元天皇の第一子である大彦命ですが、古事記では「大毘古命」と記されています。
大彦命から以下の7氏が枝分かれしました。

  • 阿倍臣(あべのおみ)
  • 膳臣(かしわでのおみ)
  • 阿閉臣(あへのおみ、阿敢臣)
  • 沙沙城山君(ささきやまぎみ)
  • 筑紫国造(つくしのくにのみやつこ)
  • 越国造(こしのくにのみやつこ)
  • 伊賀臣(いがのおみ)

日本書紀において、祟神天皇の時代に北陸道平定のために派遣された四道将軍の一角としても登場し、祟神天皇10年9月9日に、北陸へと遣わされています。
その道中、和珥坂(わにのさか)または山背平坂(やましろのひらさか)にて、大彦命は不吉な歌を詠む少女と出会いました。
大彦命はその少女の歌を不審に思い、道を引き返して祟神天皇に報告します。

その不吉な歌について倭迹迹日百襲媛命(やまとととひももそひめのみこと)が占った結果・・・武埴安彦命(たけはにやすひこのみこと)とその妻の吾田媛(あたひめ)の謀反計画があることが判明しました。

そしてその謀反は実際に起こり、武埴安彦は大彦命と彦国葺(ひこくにふくのみこと)が討ち取りました。
妻の吾田媛は吉備津彦命が討ち取り、謀反は失敗に終わります。

同年、再び四道将軍は北陸平定へと出発し、翌年4月28日に平定を成し遂げました。

ちなみに古事記によると、四道将軍4人の派遣ではなかったようで、大彦命は高志道へ。
建波邇安王(武埴安彦命)は東方十二道に遣わされたとされています。
大彦命と武埴安彦命が出会った地が「相津」と名付けられ、現在の会津になったとも言われています。

劔池嶋上陵

孝元天皇が眠る陵は、現在の奈良県橿原市石川町にある劔池嶋上陵(つるぎのいけのしまのえのみささぎ)だと定められています。
元禄の頃に調査され、円墳2基・前方後円墳1基というスタイル、「中山塚1-3号墳」とも呼ばれます。