光孝天皇|清楚な人柄から抜擢された遅咲きの天皇
2代続いて幼帝だったご時世。
54歳と遅咲きの年齢で天皇に即位したのが、光孝天皇でした。
第58代 光孝天皇(こうこう)
【諱】 時康(ときやす)
【異称】 仁和帝、小松帝
【生没】 830年~887年
【在位】 884年~887年
【在位中の元号】 元慶、仁和
【父】 仁明天皇(第3皇子)
【母】 藤原沢子(藤原総継の娘)
【陵】 後田邑陵(京都府京都市右京区)
藤原基経に抜擢された光孝天皇
清和天皇、陽成天皇と幼くして即位する事態が続いた朝廷でしたが
第58代天皇に抜擢されたのが、仁明天皇の第3皇子だった時康でした。
贅沢三昧暮らしな親王たちと比べて清貧な暮らしをしていたのが、光孝天皇でした。
容姿は閑雅だったと伝えられており、権力に対する執着もなく清楚な人柄だとも伝わっています。
藤原基経がそんな人柄に惚れ込み、時期天皇へと抜擢したとのこと。
光孝天皇の暮らしぶりは、『徒然草』にもこう記載されています。
「即位後も以前と同じように自分で炊事をしていたので、戸が薪の煤で黒くすすけていた。 光孝の御所が”黒戸”と呼ばれたのはそのためだ」
54歳で即位したのち、わずか3年で崩御された光孝天皇でしたが、和琴や和歌の才能があった文化人だったそうで、宮中行事の再興に尽力しました。
政治に関してはからっきしだったため、引き続き藤原基経が摂政として仕切っていました。
文化人として宮中行事に務めた光孝天皇
和歌や和琴の才能があり文化人であったとされる光孝天皇。
宮中行事の再興の一環として、桓武天皇時代に盛んだった鷹狩りを復活させたと伝えられています。
親王時代に相撲司別当をした経験もあったことから、天皇になってからは相撲を奨励しています。
また政治改革を願い、親王時代に住んでいた宇多院のそばに勅願寺を建てようとしていましたが、志半ばで崩御しました。
跡を継いで天皇となった宇多天皇は、光孝天皇の遺志を継いで仁和寺を創建しました。
後田邑陵
光孝天皇が眠っているとされるのは京都府京都市右京区宇多野馬場町にある円丘「後田邑陵(のちのたむらのみささぎ)」。
別名小松山陵とも呼ばれています。
江戸の頃には御陵所在は不明だったものの、明治期になって現在の場所が御陵となりました。
けれどもその根拠は全く乏しく、文献記録を見ても矛盾があるのではと言われています。
一説には京都府京都市右京区御室大内にある「御室陵墓参考地(おむろりょうぼさんこうち)」が光孝天皇の御陵なのではと指摘されています。