仁賢天皇|弟の後を継いで温厚篤実な天皇として即位した兄

先代の顕宗天皇の兄であり、弟亡き後に天皇となった仁賢天皇。
仁賢という名のごとく、賢く仁徳のある天皇として史実に残されています。

第24代 仁賢天皇(にんけん)

仁賢天皇【諡号】 億計天皇
【諱】 大脚(おおし)、大為(おおす)
【異称】 大石尊、嶋郎
【生没】 449年~498年
【在位】 488年~498年
【父】 市辺押磐皇子(第1皇子)
【母】 荑媛(葛城蟻臣の娘)
【陵】 埴生坂本陵(大阪府藤井寺市青山)

弟の勇気を称えて説得し、弟を天皇へと即位させた億計王(おけのみこと)。
しかし弟の顕宗天皇がわずか2年の在位で崩御してしまい、その後を継いで兄である億計王が仁賢天皇として即位しました。
幼い頃から優れた才知を持ち、人格者だったと言われている仁賢天皇。
幼い頃に弟と共に命からがら逃げ、民衆に紛れて生活して苦労した経験もあったことから、温厚篤実な天皇という記述が残されています。

顕宗天皇が父親の仇を討とうと考え、雄略天皇の御陵を破壊することを企てますが、兄である億計王・仁賢天皇が弟を説得して思いとどまらせたというエピソードも伝えられています。
仁賢天皇の政で国は安定し、仁賢天皇時代のことはこう記されています。

「天下は仁に帰し、民はその生業に安んじている」

そして父の仇である雄略天皇の娘である、春日大娘(かすがのおおいらつめ)を皇后として迎えていることからも、器の大きさが伝わるエピソードだと言えるでしょう。
天皇直系である市辺押磐皇子(いちのへのおしはのみこ)は雄略天皇によって無残な死を遂げたものの、仁賢天皇と皇后のとの間にのちの武烈天皇・小泊瀬稚鷦鷯が誕生したことから、勇気ある息子たちにより直系は受け継がれました。

埴生坂本陵

仁賢天皇の御陵として定められているのは、長さがおよそ122mある前方後円墳の「ボケ山古墳(野中ボケ山古墳)」、埴生坂本陵(はにゅうのさかもとのみささぎ)です。
現在の大阪府藤井寺市青山3丁目にあります。
この御陵に仁賢天皇が奉葬されたのは、仁賢天皇11年10月のことでした。

元禄の時点では仁賢天皇の御陵は不明とされていましたが、河内の学僧覚峰が「ボケ山のボケというのは、オケ(億計)が誤って伝えられたのではないか?」と考証しています。
そして幕末で行われた修補により、現在の御陵が治定されました。