神武天皇|神話、そして日本の始まりの東征伝説をもつ初代天皇

2019年3月27日

日本史上、初代天皇である人物です。

現代では「神武天皇」という。

日本という国を初めて治めたという有名な人物、神武天皇。

高千穂を出て東征へと船を進めた神武天皇の道のりは過酷なものだったと言われていますが、
初代天皇はどのような旅をしたのでしょうか?

初代 神武天皇(じんむ)

神武天皇伝説上の初代天皇で、「神武」という名は後々になって人々の間に広まったもので、様々な書物でこんな呼び名があります。

  • 始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)
    これは日本最初の王として君臨したという意味が込められています。
  • 神日本磐余彦天皇
    こちらは「磐余」という土地を支配していたという意味があります。

※磐余・・・現在の奈良県桜井市中部から橿原市の東南部にかけてのエリア。
後々に大和朝廷が誕生したと言われる地であり、神武天皇の即位地だとも言われています。

偉大な初代天皇である神武天皇は、神の降り立った国・日本の磐余を治めた日子であるというのが定説になっています。

ちなみに古代日本について記している「日本書紀」では、生前の本当の名である「諱(いみな)」が、彦火火出見尊(ヒコホホデミノミコト)となっています。
これは神武天皇の祖父と同じ名となります。

神武天皇の父は、天孫族の末裔・彦波瀲武鸕鷀草葺不合命(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)。
母は竜宮竜族の娘・玉依姫(たまよりひめ)。
浦島太郎に登場した竜宮が、神武天皇の血筋に関わっているとは驚きですね。

神武天皇は幼い頃から意志が強く、明達だったという記述があります。

【諡号】 神日本磐余彦天皇(かんやまといわれひこのすめらみこと)
【諱】 彦火火出見(ひこほほでみ)
【生没】 紀元前711年~紀元前585年
【在位】 紀元前660年~紀元前585年
【父】 彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊(第4子)
【母】 玉依姫(海神豊玉彦の娘)

【別称】若御毛沼命、狭野尊、始馭天下之天皇

8世紀後半になり使われるようになった「神武」という名は、私たちも学生時代に日本史で習ったものですね。
けれども古い書物では、様々な呼び名で記されています。

  • 若御毛沼命(わかみけぬのみこと)
    幼い頃の名前で、穀霊的性格という意味合いがあります。
  • 神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれびこのみこと)
    大和国という神聖な国を背負うものという意味が込められています。
  • 始馭天下之天皇(はつくにしらししすめらみこと)
    日本を初めて治めたという意味合いがあります。

ちなみに「日本書紀」では幼名として「狭野尊」(さののみこと)という名も紹介されていますが、これは狭野という地に尊が降臨したことが由来だと言われています。

皇紀元年

『日本書紀』をみてみると、年月日が全て干支表記となっています。
神武天皇が即位したのは・・・「辛酉年春正月庚辰朔」となっており、これは現代で言う所の紀元前660年2月11日頃だそうな。

日本書紀の記述から天皇の在位年数を遡っていくと、西暦・紀元前660年。
即位月が「春正月」とあることから、立春前後ということが分かります。
即位日に「庚辰」とあります。
紀元前660年で庚辰を調べてみると2月11日と4月12日が当てはまるのですが、立春前後であることを考慮すれば、2月11日が最も当てはまっている、むしろこの日以外当てはまらないとも言われています。

日本では終戦まで、この紀元前660年2月11が皇紀元年である暦が使われていました。

神武東征

神武東征

神武天皇はもともと九州の日向国、現在でいう宮崎県を拠点として周囲を統治していました。
けれども神武天皇が45歳の時、高千穂宮に王子や兄弟たちを集め、東征を声高らかに宣言したとされています。

その時の神武天皇の言葉がこちらです。
「天孫降臨以来、179万2470餘歲が経つも、未だに西辺のみで全土を統治できていない。東の土地は美しく、青々とした山に囲まれ、天から饒速日命が下っていると聞く。六合の中なれば大業を広げ、天下統治にふさわしい土地だろう。よって、この地を都とすべし」

太歳甲寅年10月5日。
神武天皇は船で兄である五瀬命らと東征に向かう道中、筑紫国宇佐、現在の大分県に立ち寄っています。
そこで宇佐津彦と宇佐津姫の宮でもてなしを受け、その姫を部下である天種子命の妻として娶らせました。

神武天皇は11月に筑紫国崗之水門を通過して、翌月には安芸国埃宮に到着。

吉備国に到着したのは乙卯年3月で、そこに宮を作り3〜8年ほど滞在して兵糧や船など必要なものを準備しました。
速吸之門では国津神の珍彦(うづひこ)という男を水先案内人として従えています。

王子や兄弟たちの賛同を得た神武天皇は、東を統治すべく当初は浪速国での上陸を計画していたとか。
河内国から龍田へと進むも、難路で進軍できずに、進路を変更して生駒山から中洲へと上陸しようとした神武天皇でしたが、
難波国の豪族である長髄彦(ながすねひこ)が激しく抵抗し孔舎衛坂で激しい戦いになり、兄の五瀬命が流れ矢を受けて重傷を負ってしまいます。
神武天皇は一度草香津まで兵を退かせて「一日の神の子である自分に逆らうことは、天に逆らうことだ」と語り、雄叫びを持って士気を高めたと記されています。
神武天皇が盾を並べて兵を率いたことから、この地は「盾津」という地名となりました。
その後、神武天皇は難波国からの上陸を諦め、紀伊半島を迂回して新宮という場所から上陸を果たすものの、道中で兄の五瀬命の傷が悪化してしまい、紀伊国竈山で亡くなってしまいました。

その後も受難は続きます。
女賊である名草戸畔との戦いに勝利し、神武天皇は熊野を通って大和を目指しますが、次に待ち受けていたのは暴風雨でした。

兄の稲飯命と三毛入野命は、海でも陸でも立ちふさがる敵がいることに憤慨して入水してしまいます。

神武天皇は息子である手研耳命と共に軍勢を率いて、熊野の荒坂津いて丹敷戸畔女賊を打ち破るも、土地の神の毒気にあたり、軍勢は足止めをくらいました。

天照大神からの霊剣と八咫烏

神武天皇の東征が受難続きであることに天照大神は「どうしたものか」と武甕槌神に相談を持ちかけました。

そして熊野の高倉下に霊剣・布都御魂を授けました。
霊剣を受け取った高倉下が、霊剣を神武天皇へと献上したところ、毒気を浴びて倒れていた軍勢が一気に元気を取り戻し、再び進軍したと伝えられています。

けれども歩みを取り戻した軍勢の前に立ちはだかる険しい山道に、天照大神は八咫烏を遣わしました。

天照大神の使者である八咫烏の案内により、神武天皇らは莵田へとたどり着き、その地を納めていた兄猾(えうかし)と弟猾(おとうかし)を呼びました。

神武天皇の呼びかけに応じて参上したのは弟猾のみ。

さらに弟猾は、兄猾が神武天皇を暗殺しようと目論んでいることを報告しました。
弟猾の密告により神武天皇は、兄猾を先に討伐することに成功し、軽兵と住人たちを従えて吉野を巡ります。

やがてたどり着いた高倉山から見えたのは、八十梟帥(やそたける)や兄磯城(えしき)が率いる軍勢でした。

再び戦わなければならなくなった神武天皇は、夢で高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)からて天平瓦と御神酒をの器を作って勝利祈願をするよう助言を受け、その通りに天神地祇を祀ります。

国見岳にて八十梟帥に勝利した神武天皇は、八咫烏を使者として弟磯城を降参させました。

けれども兄磯城は兄倉下、弟倉下を従えて抵抗を続けたため、椎根津彦の立案した奇策により兄磯城を討ち取ります。

最後の決戦は、因縁の相手でもある長髄彦。
神武天皇が優勢でありながらも中々勝てずにいた頃、雲が天を覆い雹が降り、鵄(とび)がどこからともなく飛んできました。
そして神武天皇の弓先に止まると、まるで稲光のような金色色に輝きだし、長髄彦率いる軍勢は混乱を生じてしまいます。

これを機にとばかりに神武天皇の軍勢が攻め入り、とうとう饒速日命が長髄彦を打ち取って降伏したのです。

その翌年、激しい抵抗を続けていた新城戸畔、居勢祝、猪祝も神武天皇に討ち取られ
さらには高尾張邑では、小さな体と長い手足をもつ土蜘蛛を罠で捉えて討ち取ります。

その時に使われた罠が「葛網」というものだったため、その土地は葛城と呼ばれるようになりました。

長い年月と数々の受難を乗り越えて、神武天皇は中洲を収め、畝傍山の東南に位置する橿原を都としました。

その後神武天皇は、大物主の娘である媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめ)を妃として迎え入れたのです。

畝傍山東北陵

陵墓の調査が行われた元禄時代、歴代天皇の陵墓の決定と修繕作業が行われました。
その際に畝傍山から東北へ700メートルほどの距離にあった福塚という小規模の円墳が、神武天皇の陵墓と定められます。

神武天皇陵は日本を建国した初代天皇、神武天皇が即位した地とされています。
けれども神武天皇の陵墓については諸説あり、畝傍山にほど近い場所にある「ミサンザイ」や「神武田(じぶでん)」が神武天皇の陵墓だという説や、洞の丸山が有力なのでは?という説も浮上していましたが、1863年の文久3年、正式に神武天皇の陵墓なミンザイへと定まり、幕府が15000両もの費用を出して修繕に当たりました。
さらに幕府により、周辺にあった100もの天皇陵を修繕したと記録されています。

当時の貨幣価値

15000両といってもピンとこないでしょう。
慶應義塾大学文学部教授であった池田弥三郎の著作『江戸と上方』(至文堂、1965)によると、文久3年当時の貨幣価値では1両が現在の4千円に相当するといいますが、これは1965年の米の価値を基にして算出された貨幣価値ですので1965年当時の価値と考えられます。
さらに、ウェブサイト「幕末の貨幣価値」では、池田弥三郎の貨幣価値を基礎データとした上で、山田紘一郎氏が米の価値の変動を加味しています。

1965年から現在における米の価格は約3.7倍になっているとすると、現実的な価値として1両およそ15000円となります。

幕末の貨幣価値を参照:
http://www.kisc.meiji.ac.jp/~wonomasa/kahei.htm

これを基に当時の15000両を現在の価値に換算すると2億2500万円ということになりますが、当時の工賃が安かったとは思いますが、この価格も現在の価値としては少し低すぎるような気がしますね。

皇室の節目に欠かせない神武天皇陵

現在、神武天皇の陵墓は橿原神宮の北にある奈良県橿原市大久保町洞にあります。
そこは畝傍山から大体東北に300mほどのエリアで、東西500m、南北約400mとかなりの広さとなっています。
陵墓を囲む植え込みは周囲約100m、高さ5mほどにもな理、幅は約16mとかなりの大きさです。

今年、譲位を控えた今上天皇が「親謁の儀(しんえつのぎ)」のため、神武天皇陵(畝傍山東北陵)にご参拝されました。
「親謁の儀」とは初代天皇が即位したとされる神武天皇陵の地で、譲位を報告する儀式です。
過去200年間、譲位が行われなかったので、「親謁の儀」も200年ぶりの儀式となりました。

天皇にとって神武天皇陵は大切な地で、立太子、ご成婚、即位、譲位と人生の節目に必ずご報告に参拝する場所です。
秋篠宮家の眞子内親王殿下、佳子内親王殿下においても、ご成年になられたとき、二十歳になられたとき、人生の節目に参拝されています。