安康天皇|刺殺された背景には悍ましき権力争いがあった!?

まるで映画のような展開ですが、とんでもない権力争いの末に刺殺されたのではとされている安康天皇。
妻の幼い連れ子に刺殺され、連れ子を殺して行為に即位した雄略天皇・・・

皆さんもピンときたことでしょう。

もしかしたら雄略天皇が裏で手を引いていた可能性は大いにありますね。

第20代 安康天皇(あんこう)

【諡号】 穴穂天皇(あなほのすめらみこと)
【生没】 401年~456年
【在位】 454年~456年
【父】 允恭天皇(第2皇子)
【母】 忍坂大中姫命(稚浄毛18皇子の娘)
【陵】 菅原伏見西陵(奈良県奈良市宝来町)

わずか在位3年で刺殺された天皇

安康天皇天皇家の歴史には皇位争いはいつの時代も付き物でした。
第19代允恭天皇の後、第20代天皇に即位するのは、皇太子の木梨軽皇子(きなしのかるのみこ)の予定でした。
けれども木梨軽皇子は允恭天皇時代に近親相姦事件を起こしており、この事件により自害。
木梨軽皇子の弟であった穴穂皇子が安康天皇として即位しました。

天皇になった直後、家臣の偽りの進言を信じた安康天皇は、無実であった大草香皇子(おおくさかのみこ)を誅殺しています。
安康天皇が妻として迎えたのは、大草香皇子の妻だった中蒂姫(なかしひめ)でした。
中蒂姫には眉輪王(まゆわのおおきみ)という連れ子がおり、眉輪王は父親である大草香皇子の仇を取るために安康天皇を刺殺。
それは安康天皇が即位してわずか3年でのことでした。

その後、天皇として即位したのは雄略天皇。
雄略天皇は安康天皇を刺殺した眉輪王を始末していることから、実は黒幕は雄略天皇だったのでは?という説が根強く残っています。

菅原伏見西陵

宮内庁から定められた御陵は「菅原伏見西陵(すがわらのふしみのにしのみささぎ)」。
遺跡名で「古城1号墳」と呼ばれるもので、奈良県奈良市宝来4丁目にあります。
ただし近年になってからの研究で、この「古城1号墳」は古墳ではなく中世期に建てられた山城の跡ではないかとされています。