履中天皇|有力豪族らを登用して政を進めた天皇

即位前から弟との争い、都から逃げるなど波乱万丈であった履中天皇。
蘇我氏や物部氏といった有力豪族らを登用して具体的な政治を進めるも、即位してわずか5年ほどで亡くなってしまったため、多くの功績が残っている訳ではありません。

第17代 履中天皇(りちゅう)

【諡号】 去来穂別天皇(いざほわけのみこと)
【生没】 生年不詳~405年
【在位】 400年~405年
【父】 仁徳天皇(第1子)
【母】 磐之媛命(葛城襲津彦の娘)
【陵】 百舌鳥耳原南陵(大阪府堺市西区石津ヶ丘)

皇妃黒媛を巡る弟との争い

履中天皇これは天皇即位前の事件です。
履中天皇は黒媛を皇后に迎えるために、住吉中皇子(すみのえなかのみこ)を黒媛の元へ使者として遣わしました。
使者として黒媛の元を訪れた住吉中皇子でしたが、黒媛に一目惚れしてしまい「自分が履中天皇である」と偽り、黒媛を自分のものとしてしまいました。
信じていた皇子の所業に大激怒した履中天皇でしたが、住吉中皇子も天皇を亡き者にしようと謀反を起こしました。
住吉中皇子の凄まじい勢いに、履中天皇は一度難波を出て、武器庫としても使われていた石上神宮(いそのがみじんぐう)へと逃げました。

そして弟の瑞歯別皇子(みずはわけのみこ)へ命じて、住吉中皇子を討伐しました。
※ちなみに瑞歯別皇子はのちに反正天皇になる人物です。
住吉中皇子の討伐に成功した履中天皇は、磐余稚桜宮(いわれわかざくらのみや)にて天皇へと無事即位を果たします。

履中天皇の残した業績

履中天皇2年、履中天皇は有力豪族を次々に国政で登用します。

  • <蘇我満智> 武内宿禰の孫であり河内を拠点としていた豪族
  • <物部伊莒弗> 哮峰に天下った饒速日命を祖神とする豪族
  • <平群木菟> 蘇我氏同様に武内宿禰が始祖である豪族

各地に<国史(ふみひと)>書記官を置いて、細かな国情を報告させ始めたのも履中天皇であり、蔵職(くらのつかさ)を設けて蔵部を定めたのも履中天皇の功績でした。
さらに渡来人である王仁や阿知使主も起用し、公費関連の出納記録を任せました。
これは日本の宮廷組織の管理に関する基盤となりました。

有能な人物を起用して国政を盛り上げた履中天皇でしたが、即位してわずか5年で稚桜宮で崩御してしまいました。
さらに、強い猜疑心のために頼り難い人物立ったともされています。

百舌鳥耳原南陵

宮内庁が履中天皇の御陵と定めたのは百舌鳥耳原南陵(もずのみみはらのみなみのみささぎ)で、遺跡名を「上石津ミサンザイ古墳」と呼びます。
大阪府堺市西区石津ヶ丘にある前方後円墳は長さがおよそ365mあるとされています。