後冷泉天皇|国内外で争いが絶えなかった苦難の時代に遊興に没頭
藤原道長の外孫として天皇の座に就いたものの、映司は左大臣や右大臣ら藤原家が権力を持っていました。
国内外で様々な争いが起きたものの、後冷泉天皇は実権を握ることなく、政務を取り仕切ることもないままだったと伝えられています。
第70代 後冷泉天皇(ごれいぜい)
【諡号】 ―
【諱】 親仁(ちかひと)
【異称】 ―
【生没】 1025年~1068年
【在位】 1045年~1068年
【在位中の元号】 寛徳、永承、天喜、康平、治暦
【父】 後朱雀天皇(第1皇子)
【母】 藤原嬉子(藤原道長の娘)
【陵】 円教寺陵(京都府京都市右京区)
藤原道長の外孫、政務の実権は相変わらず藤原家のもの
後冷泉天皇は藤原道長(1028年没、享年62歳)の外孫であり、後朱雀天皇の第1皇子でもありました。
天皇の座に就いたものの、当時政務の実権を握っていたのは関白の藤原頼通(左大臣でもあった)、右大臣の藤原教通や内大臣である藤原頼宗らでした。
政務を取り仕切ることのなかった後冷泉天皇は、蹴鞠に興じたり歌合を楽しむなどして日々を過ごしたと伝えられています。
後冷泉天皇在位中は陸奥国で起きた前九年の役など国内、そして外国との戦いが勃発しました。
遊興にふけり政治を取り仕切ることもなかった後冷泉天皇は病に倒れると、
自身が建立を支持した法成寺阿弥陀堂の本尊前に場所を作って床にふせ、
五色の糸で阿弥陀像9体の手と自身の手を結び、極楽往生を念じながら崩御されたとも伝えられています。
役と乱の違い
後冷泉天皇時代、「役」と呼ばれる外国との戦いや、「乱」と呼ばれる国内での争いが頻発しました。
というのも当時、東は北蝦夷地なのか日本なのか…という微妙な立ち位置だったのです。
「前九年の役」や「前三年の役」が勃発しましたが、前九年の役が起きたのは現在の岩手県・奥六郡という地域。
このことから、当時の岩手県など東北は「日本」というよりも「異国」と捉えられていたことが分かります。
11世紀の東北地方は、土着豪族が力を持っていました。
陸奥国・衣川北部にある奥六郡一体は安倍氏
出羽国一体は清原氏
当時から東北地方にも、朝廷への貢賦や徭役が課せられていましたが、力をつけた安倍氏は貢賦や徭役を拒否するようになり
南部へ向けて力を広めようと進出し始めました。
安倍氏の反乱
・1051年(永承6年)、「鬼切部の戦い」
陸奥守として赴任していた藤原登任は、朝廷に仇をなす安倍氏を懲罰するために、数千の兵を出しました。
鬼切部という地域で安倍氏と藤原登任が衝突。
安倍氏の圧勝、国府軍は敗退という結果に、藤原登任は陸奥守を更迭となりました。
後任として陸奥守の地位についたのは戦いに優れた河内源氏出身の源頼義でした。
・1052年(永承7年)、「上東門院病気平癒祈願の大赦」
当時、後冷泉天皇の祖母にあたる上東門院・藤原彰子が病気に伏せていました。
上東門院の病気平癒祈願のため大赦が行われ、朝廷の懲罰対象であった安倍氏もその恩恵を受けました。
族長であった安倍頼良は陸奥守後任としてやってきた源頼義を、酒と料理を振舞って迎え
さらに名前の呼びが同じ「よりよし」だということに気を使い、安倍頼良は名を「頼時(よりとき)」と改めたと伝わっています。
1年後の1053年(天喜元年)、源頼義は陸奥守と兼任し鎮守府将軍へと任命されました。
・1056年 (天喜4年)、「阿久利川事件」
この年、源頼義は陸奥守の任期満了を迎えました。
しかし、事件が起きます。
この日、源頼義は胆沢城・鎮守府から多賀城・国府へと戻る道中、阿久利川の側で野営していました。
そんな頼義の元に一報が入ります。
部活の藤原光貞と元貞が夜討ちの襲撃を受けたというのです。
人と馬が損害を受け、夜討ちの容疑者として安倍頼時の息子・安倍貞任の名が上がりました。
けれど安倍氏側は出頭を拒否したことから、再び国府軍と安倍軍が衝突することとなったのです。
しかし当時、安倍頼時の娘婿・平永衡と藤原経清は、源頼義の配下の将として衣川南部にいました。
「この2人は安倍側のスパイである」という確証のない内通を信じた頼義は、平永衡を粛清しました。
平永衡と同じ娘婿であった藤原経清は、自身の身も危ういと考え、国府軍から脱出し安倍氏の元へ戻りました。
この年の年末、源頼義は陸奥守を更迭される結果となりました。
・1057年(天喜5年)、「黄海の戦い」
阿久利川事件の翌年5月、伏兵の手にかかり安倍頼時が亡くなってしまいます。
安倍氏の族長となったのは息子・安倍貞任でした。
その年の11月、再び源頼義は兵を出し、安倍貞任と再戦。
兵を集めた安倍貞任は黄海という地にて迎え撃ちました。
けれども季節は冬。寒さ厳しい東北地方への遠征で源頼義率いる軍は物資の補給に苦しみ、兵も疲弊したことから大敗。
大敗の文字通り、源頼義は長男・頼家を含めたたった7騎で戦さ場から逃れる結果となりました。
源頼義は大敗のダメージの回復に手間取り、その間に安倍氏が衣川南部へと再び勢力を伸ばしていきました。
清原氏が参戦したことで戦局が逆転
1062年(康平5年)、源頼義は陸奥守の任期満了を迎え、後任として高階経重が着任。
しかし郡司らが後任・高階氏に従わなかったことから、高階氏は解任、再び源頼義が陸奥守に任命されました。
その年の7月、安倍氏と源氏の戦いでは中立の立場をとっていた出羽国・豪族の清原氏が参戦。
清原氏族長の清原光頼は源頼義の要請を聞き入れ、族長の弟・清原武則が総大将として出兵しました。
その年の9月、安倍氏が拠点としていた厨川柵が落ち、族長の安倍貞任は捕らえられました。
すでに深手を負っていた安倍貞任は、源頼義を一目見てすぐ、なくなりました。
安倍軍の藤原経清は鈍刀を用いての斬首。
鈍刀を用いたのは、苦痛を与えるためだったとされています。
20年後に勃発する「後三年の役」の火種
ようやく安倍氏を討ち取った源頼義。
この流れで勢力拡大を図り河内源氏の勢いをつけようと考えていましたが、朝廷から正四位下伊予守への着任が命ぜられました。
陸奥守へ再任することが叶わなかった頼義は、出羽国の豪族・清原氏へと陸奥国の支配権を譲ります。
安倍氏との戦いで総大将を務めた清原武則は、功績を挙げたことから朝廷より従五位下鎮守府将軍を任され、奥六郡を与えられました。
安倍氏と源頼義との戦いは、最終的に清原氏が出羽・陸奥国を治めるという結果となったのです。
安倍氏は源頼義との戦いで滅亡。
藤原経清の妻であり族長・安倍頼時の娘は、敵将・清原武貞の妻となり、子供も養子として引き取られました。
名を清原清衡と改め育てられることとなりましたが、それが20年後に勃発する「後三年の役」の火種としてくすぶることとなります。
円教寺陵(えんきょうじょのみささぎ)
後冷泉天皇が眠っているとされるのは、京都府京都市右京区竜安寺朱山の龍安寺内にある、円丘形式の圓教寺陵です。