後朱雀天皇

後朱雀天皇時代は、まだまだ藤原家の勢力が強かったものの、確かに藤原家栄華の陰りは現れていました。
それでも傀儡に過ぎなかった後朱雀天皇。
さらに治世の乱れも頻発し、伊勢神宮の祟りだという噂も尽きなかったと言われています。

第69代 後朱雀天皇(ごすざく)

【諡号】 
【諱】 敦良(あつなが)
【異称】 
【生没】 1009年~1045年
【在位】 1036年~1045年
【在位中の元号】 長元、長暦、長久、寛徳
【父】 一条天皇(第3皇子)
【母】 藤原彰子(藤原道長の娘)
【陵) 円乗寺陵(京都府京都市右京区)

栄華を誇った藤原摂関政治の陰り

後朱雀天皇藤原道長の度重なる嫌がらせに疲弊した敦明親王が皇太子を辞退すると、藤原道長が皇太子として敦良親王を皇太子としてたてました。

後一条天皇は27歳で崩御されるまで子供をもうけることができませんでしたが、東宮である敦良親王は、藤原道長の六女・嬉子(よしこ)を迎えており、親仁(ちかひと=のちの後冷泉)をもうけていました。
さらに三条天皇の娘・禎子内親王(よしこ)との間にも、尊仁(たかひと=のちの後三条)をもうけていました。

藤原道長の長男・藤原頼通ら次世代組は、天皇の外戚というポジションを手に入れようと後朱雀天皇へ次々に娘らを入内させました。
けれども次世代組の願う皇子は生まれませんでした。
それは、わずかであり密かであったものの、藤原家の衰退の始まりだったと言われています。

強い気性だったという後朱雀天皇ですが、藤原家の摂関政治の傀儡のまま、35歳で崩御されました。

後朱雀天皇治世を乱れさせた原因は…伊勢神宮の祟り?

後朱雀天皇は藤原家の勢力に圧されるだけでなく、治世の乱れも抱えていました。
当時、伊勢神宮に関連した厄災や事件が勃発。
紛争や台風による外宮の倒壊や、禰宜・神主や祭主の係争関連の強訴も相次ぎ、さらには怪異まで頻発したのです。

これを伊勢神宮の神の怒り・祟りだと怯えた後朱雀天皇は、錯乱しながらも許しを乞うたと伝えられています。

円乗寺陵

後朱雀天皇が眠っているとされるのは、京都府京都市右京区竜安寺朱山の龍安寺内にある円丘形式の圓乘寺陵(円乗寺陵:えんじょうじのみささぎ)だとされています。