元明天皇|古事記、日本書紀、風土記の編纂と奈良時代幕開けの女帝
文武天皇の母であった阿閉皇女(あへのひめみこ)は、息子の病死、そして孫の即位までの間を埋めるために女帝となりました。
元明天皇は平城京へと遷都を行い、奈良時代幕開けの天皇として政を行った人物でもあります。
第43代 元明天皇(げんめい)
【諡号】 日本根子天津御代豊国成姫天皇(やまとねこあまつみしろとよくになりひめのすめらみこと)
【諱】 阿閉(あへ)
【生没】 661年~722年
【在位】 707年~715年
【在位中の元号】 慶雲、和銅
【父】 天智天皇(第4皇女)
【母】 姪娘(蘇我倉山田石川麿の娘)
【陵】 奈保山東陵(奈良県奈良市奈良阪町)
文武天皇が病で亡くなった後、その息子である首が即位する予定でした。
けれどもまだ首が若かったために、文武天皇の母である阿閉が女帝として元明天皇となります。
平城京遷都、奈良時代の幕開けに立った女帝
元明天皇誕生から3年後の710年。
歴史上有名な平城京遷都が行われました。
これは臣下の勧めにより発案されたもので、藤原京の終焉と奈良の都・平城京の誕生としてとても有名ですね。
奈良時代の幕開けの女帝だったのが、元明天皇なのです。
役割を終えた藤原京には、天智天皇時代から天皇の家臣として使えた左大臣・石上朝臣麻呂(いそのかみのあそみまろ)が留守司として残ることとなり、朝政では右大臣である藤原不比等(ふひと)が大きな力を握ることとなりました。
元明天皇の功績
政の補佐として藤原不比等がつき、元明天皇は律令国家を推し進めていきます。
国産貨幣として和同開珎を鋳造させ、古事記の撰録や『風土記』編纂を指示するなど、元明天皇は多くの功績を残しています。
元明天皇へと献上された「古事記」
天武天皇の勅命により『古事記』を繰り返し声に出して読んでいた稗田阿礼(ひえだのあれ)。
それを書きまとめたのが太安万呂(おおのやすまろ)であり、完成した古事記は元明天皇へと献上されました。
さらに元正天皇が即位すると、舎人親王(とねりしんのう)らによって日本書紀が完成します。
奈保山東陵
元明天皇が眠っているとされているのは、山形形式の奈保山東陵(なほやまのひがしのみささぎ)。
現在の奈良県奈良市奈良阪町にあります。
元明天皇は、生前こんな詔(みことのり)を出していました。
「乃ち丘体鑿る事なく、山に就いて竈を作り棘を芟り場を開き即ち喪処とせよ、又其地は皆常葉の樹を植ゑ即ち刻字之碑を立てよ」
これは「工具で掘ったり削ったりすることはせず、山でかまどを作ってトゲを刈り取って開けばいい。墓には常葉樹を植えて文字を入れた碑を立てればいい」という意味。
簡素な葬儀でいいという天皇の命であり、その通りに元明天皇が崩御されると、喪儀は行われず椎山陵に葬られました。
ちなみに書物によって御陵の呼び名が違います。
『続日本紀』→「椎山陵」
「天平勝宝4年閏3月の条」→「直山陵」
「遺詔」→「蔵宝山雍良岑」
「延喜諸陵式」→「奈良山東陵」
中世では元明天皇の御霊がどこなのか不明となりました。
流れとしては
『前王廟陵記』→富士墓
『大和志』→大奈辺古墳
幕末の修陵→現在の場所
現在では「刻字之碑」が建てらられていますが、これは中世期に陵土が崩れて落ちていたのが発見され、一度は奈良春日社に安置されます。
その後、藤井貞幹がこれをみて元明天皇陵刻字之碑だと考えました。
文久の時代に御陵へと移され、明治29年になって模造碑が作られて建て直されたものです。