清和天皇|応天門の変と藤原良房の摂関政治

たった1歳で祖父・藤原良房の謀略により立太子した惟人親王。
8歳で天皇として即位するも、藤原良房の操り人形といっても過言ではない扱いに過ぎませんでした。

第56代 清和天皇(せいわ)

【諱】 惟仁(これひと)
【生没】 850年~881年
【在位】 858年~876年
【在位中の元号】 天安、貞観
【父】 文徳天皇(第4皇子)
【母】 藤原明子(藤原良房の娘)
【陵】 水尾山陵(京都府京都市右京区)

藤原良房が摂政として圧倒的支配力を持つ時代

祖父・藤原良房の計らいによりたった1歳で立太子。
文徳天皇が急死したことでわずか8歳で即位したのが清和天皇でした。

天皇とは名ばかり、まだ幼い子供であったため、実権を握り政治を思うがままにしたのが、太政大臣まで上り詰めた藤原良房。

そんな朝廷への批判が募るかのように勃発したのが、「応天門放火事件」でした。

応天門の変

866年。
日本史でも有名な「応天門の変」が勃発しました。

応天門というのは内裏の朝堂院に位置する正門のこと。
応天門から起きた火災は全くまに広まり、多くの建物が焼失しました。

応天門の変

鎮火後、伴善男(とものよしお)が藤原良相にこう進言しました。

伴善男:応天門の火災は、左大臣である源信が起こしたものです

藤原良相はこの進言を元に源信を逮捕しようと動きますが、ここで藤原良房が介入します。
源信は無実だと主張したことで、伴善男の進言は却下されました。

「応天門の変」発生から5ヵ月経過した頃、衝撃的な密告が寄せられました。

密告内容:伴善男とその子供が応天門に放火した犯人である

伴善男の否定は受け入れられず、遠くの地へと流刑となりました。
敵対していた伴善男すらも一層することに成功した藤原家。

結局応天門の変の容疑者は数人上がるも決定打に欠けました。
けれども藤原良房はこの事件をきっかけに、伴氏(大伴一族)や紀氏といった有力一族をどんどん排除していきました。
そうして清和天皇時代、藤原良房の支配は誰にも止められないものとなりました。

さらに応天門の変の後、藤原良房が摂政へと就いたことで日本史における「摂関政治」がスタートすることとなりました。

清和天皇の業績

これまでの律令制度が機能していなかったため、清和天皇は820〜863年の格式を集大成とした「貞観格式(じょうがんきゃくしき)」を完成させました。

けれどもあくまでも修正点や変更点があった程度のもので、大きな業績とは言えません。

その後、清和天皇は26歳の若さで突如として譲位し出家。
わずか30歳で崩御されました。

26歳で突然譲位・出家した清和は、30歳の若さで崩御している。

清和天皇

 

水尾山陵

清和天皇が眠っているとされるのは京都府京都市右京区嵯峨水尾清和にある円丘「水尾山陵(みずのおやまのみささぎ)」。
清和天皇の希望により、火葬された遺骨は洛西の水尾に埋葬されたと伝えられています。
数ある天皇の御陵の中でも、確かな御陵だとされています。