文武天皇|14歳の若さで即位、大宝律令を制定した天皇

たった14歳、現代では中学2年生という若さで天皇になった文武天皇。
若くして天皇になりましたが、歴史上有名な「大宝律令」を制定したとして、政の手腕も確かに持っていた人物です。

第42代 文武天皇(もんむ)

文武天皇【諡号】 倭根子豊祖父天皇、天之真宗豊祖父天皇
【諱】 珂瑠、軽(かる)
【生没】 683年~707年
【在位】 697年~707年
【在位中の元号】 大宝、慶雲
【父】 草壁皇子(第1子)
【母】 阿閉皇女(=元明天皇。天智天皇の娘)
【陵】 檜隈安古岡上陵(奈良県高市郡明日香村)

天武天皇、そして持続天皇に大切にされていた草壁皇子は、皇后として阿閇皇女(あへのひめみこ)を迎え、2人の子に恵まれました。
草壁皇子(くさかべのみこ)の子供として生まれた氷高皇女(ひだかのみこ)と軽皇子(かるのみこ)。
軽皇子こそが、のちの文武天皇です。

兄弟揃って天皇となった氷高皇女と軽皇子

氷高皇女も後々、元正天皇として即位しますが、先に即位したのは文武天皇でした。
たった14歳、幼い子供の頃に即位した文武天皇は、体格はがっしりとしたタイプではなかったと伝わっています。

軽皇子が文武天皇として即位したけれども、引退してもなお権力を持っていた持統太上天皇の後見があり、さらに皇后となった宮子の父・藤原不比等(ふひと)が補佐に付いたことで文武天皇の時代も朝政は滞りなかったとされています。

ちなみに皇后となった宮子の父・藤原不比等は藤原鎌足(かまたり)の息子にあたる人物です。

文武天皇の功績

日本史で必ず習うであろう有名な「大宝律令」の制定を行ったのは、文武天皇でした。

そしてこの時代から、30年ぶりに遣唐使を派遣して唐との国交を再開させ、大陸文化をどんどん取り入れていきました。

元号の定着

文武天皇は天武天皇以降、しばらく空白だった元号を再び制定します。
制定した元号は「大宝」。

文武天皇が制定した元号「大宝」以後、日本国の元号は「慶雲」「和銅」と続きます。
以後、各天皇に1つ以上の元号が制定されるようになり、今日まで続いています。

檜隈安古岡上陵

文武天皇が眠っているとされているのは遺跡名「栗原塚穴古墳」、現在の奈良県高市郡明日香村大字栗原にある檜隈安古岡上陵(桧隈安古岡上陵:ひのくまのあこのおかのえのみささぎ)で山形形式担っています。

けれども一説では、明日香村平田の中尾山古墳(八角墳・横口式石槨)が文武天皇の御陵なのでは?とも言われています。