綏靖天皇|衝撃の食人天皇!?にまつわる話
歴代2代目の天皇であり、葛城氏が拠点とした地に皇居を構えました。
綏靖天皇のエピソードをご紹介するにあたって、必ず出てくるワードが「食人」・・・これは一体どういうことなのでしょうか?
これは後述していきます。
第2代 綏靖天皇
【生没】 紀元前632年~紀元前549年
【在位】 紀元前581年~紀元前549年
【父】 神武天皇(第3子)
【母】 媛蹈鞴五十鈴媛命(事代主神の娘)
初代天皇である神武天皇と、事代神主の娘である母との間に3兄弟が生まれます。
長男: 手研耳命(たぎしみみのみこと)
次男: 神八井耳命(かんやいみみのみこと)
三男: 神渟名川耳尊(かむぬなかわみみのみこと)
その第三子にあたる神渟名川耳尊こそが、のちに2代目天皇となる綏靖天皇(すいぜいてんのう)です。
ちなみに綏靖天皇は歴史的文献では呼び名が異なっています。
日本書紀: 神渟名川耳尊(かむぬなかわみみのみこと)
古事記: 神沼河耳命(かむぬなかわみみのみこと)
跡目争いを治めて帝位に就く
父である神武天皇が崩御してしまうと、兄弟間で跡目争いが勃発。
政(まつりごと)に長けていた長男の手研耳命は、天皇の座に就くために弟たちを亡き者にしようと画策します。
けれども弟2人は兄の計画を知り、弓や鏃や箭を作るように命じ、装備を整えました。
弟たちは、「片丘」という一室にに臥せていた兄を、先手必勝とばかりに襲撃。
けれどもこの時、次男は体が震えてしまって矢を放つことができませんでした。
結局、長男を矢で打ち取ってみせたのは三男の神渟名川耳尊。
自分たちを殺そうとしていた長男を先に襲撃し、今度はどちらが天皇となるべきかという話になった次男と三男。
しかし手足の震えが収まらずに長兄を討ち取れなかった次男は、自身の失態を恥じて、弟に天位についてはどうかと勧めます。
こうして神武天皇が崩御してから4年の月日をかけて1月初旬、神渟名川耳尊が2代目天皇に即位しました。
ちなみに「綏靖」というのは安らかに落ち着くという意味で、奈良時代後期に活躍した皇族・文人だった「淡海三船」が奉ったと言われています。
綏靖天皇の皇后となったのは、葛城氏を司る事代主神の娘である「五十鈴依媛命」(いすずよりひめのみこと)。
現在の奈良県御所市が葛城市の拠点であり、そこへ皇居を構えました。
綏靖天皇から9代目の天皇までは、創造上の天皇だという説があり、実在していなかったとも言われており、この8人の天皇は「欠史八代」とも称されます。
また「渟名川耳」という川の神を天皇として崇めていたのではという説もあります。
綏靖天皇は食人する天皇だった・・・!?
南北朝時代に安居院唱導教団が作成したとされている『神道集』で、衝撃的な記載があります。
この神道集の一説によると、綏靖天皇は食人だったそうな。
朝と晩で人間を7人食べるという悪食で大食感!人の肉を食べる天皇を見て、家臣たちは「明日は我が身かもしれない」と震え上がります。
さらにこのまま天皇が長生きしてしまえば、大食漢である天皇の食人習慣で人類が滅んでしまうのではないか?とも危惧されます。そこで家臣たちは天皇を幽閉します。
「近いうちに火の雨が降るらしいぞ!」というでデマを故意的に流し、国中に広めます。
そして綏靖天皇を頑丈な柱で囲った岩屋に避難させ、決して出られないように幽閉し、代理にたったものが政を行った・・・
南北朝が混乱している14世紀半ばで誕生した「神道集」に掲載されているこの衝撃のエピソード。
まさか本当の話だとは思いたくありませんよね。
綏靖天皇が眠るとされる桃花鳥田丘上陵
現在の奈良県橿原市四条町にある「桃花鳥田丘上陵」。
綏靖天皇が眠るとされている御陵ですが、これもやはり真偽のほどは不明です。
日本書紀や『延喜式』諸陵寮によれば「桃花鳥田丘上陵」とされていますが、古事記では「衝田岡(つきだのおか)」と記されています。
天皇の御陵を探すにあたって様々な説が上がったものの、幕末時代に行われた御陵の修繕の際に、現在の場所だと決定されて落ち着きました。
綏靖天皇は、現在でも父親である神武天皇の真北に眠るとされています。
以前は古墳なのか、その形すらも明らかになっていませんでした。
けれども2017年、考古学者や歴史学界の関係者が史上初、立ち入り調査を行い、円墳状の古墳である可能性高いと発表しました。