三条天皇|眼病を理由に藤原道長から譲位を迫られた天皇
藤原兼家の孫であり、とても可愛がられたと伝えられている三条天皇。
けれども天皇に即位したのは、35歳になってからのことでした。
第67代 三条天皇(さんじょう)
【諡号】 ―
【諱】 居貞(おきさだ)
【異称】 ―
【生没】 976年~1017年
【在位】 1011年~1016年
【在位中の元号】 寛弘、長和
【父】 冷泉天皇(第2皇子)
【母】 藤原超子(藤原兼家の娘)
【陵】 北山陵(京都府京都市北区)
実権を握る藤原道長と良好とは言えない関係であった三条天皇
一条天皇同様に、三条天皇も藤原北家で大きな力を持った藤原兼家(かねいえ)の外孫です。
さらに、三条天皇は兼家と容姿が似ていたことからも、ことさら寵愛されたそうな。
11歳になり立太子した三条天皇ですが、寵愛されている割に、即位したのは35歳になってからのことでした。
藤原家でもまさに絶頂寸前だった藤原道長ですが、その前に立ちはだかったのが三条天皇でした。
『栄花物語』では、三条天皇についてこんな一文があります。
「成長されて立派で男らしい。藤原道長も、どの天皇にも劣らない立派な人物だと思っている。」
けれども実際は、三条天皇と藤原道長は良好とは言えない関係だったと言われています。
1014年(長和3年)、三条天皇は仙丹を服用した直後に、視力を失うほどの眼病を患ってしまいました。
これを機に、藤原道長は自身の外孫である敦成親王(あつひら)を皇位につけようと画策します。
「眼病を患ったのだから譲位をしてはいかがか?」
そんな藤原道長の意見を三条天皇は拒否したのですが、数々の嫌がらせを受けるようになるのです。
1014年と1015年、内裏が2度も火事で焼失し、三条天皇の眼病も悪化するばかり。
ついに三条天皇が道長の嫌がらせに屈する結果となり、道長の孫である敦成親王の、第一皇子・敦明親王を皇太子として立てることを条件とし、三条天皇は譲位を決断しました。
翌年に三条天皇は出家し、41歳で崩御されました。
三条天皇の眼病に関する噂
眼病を患った三条天皇は、飛躍とされる金丹液を服用していました。
また、三条天皇の眼病は、怨霊に取り憑かれたことが原因ではないかとも囁かれていたそうです。
「大鏡」には、延暦寺の僧・桓算の亡霊が語っていた言葉が掲載されています。
延暦寺の僧・桓算の亡霊:わしが三条院の首に乗り、羽で目を覆っている
この「大鏡」の記録から、三条天皇が怨霊に取り憑かれていたと言われるようになったのでしょう。
北山陵
三条天皇が眠っているとされるのは、京都府京都市北区衣笠西尊上院町にある円丘形式の北山陵(きたやまのみささぎ)だと言われています。
一条天皇と同じ火葬塚で火葬が行われたと伝えられており、その場所は現在の衣笠鏡石町です。