仁徳天皇|民のかまど~庶民のための政治を行った天皇

2021年1月9日

天皇家の歴史の中でも、即位に際して悲劇の連続だった仁徳天皇。
人々の心を第一に、庶民の生活をより良くしようと尽くした人物でもありました。

第16代 仁徳天皇(にんとく)

【諡号】 大鷦鷯天皇(おおさざきのすめらみこと)
【異称】 聖帝、難波天皇(万葉集)
【生没】 257年~399年
【在位】 313年~399年
【父】 応神天皇(第4子)
【母】 仲姫命(品陀真若王の娘)
【陵】 百舌鳥耳原中陵(大阪府堺市大仙町)

末子相続から長男相続へと移ったきっかけ

生前の応神天皇は、皇子になるべきは菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)だと考えていました。
けれども応神天皇が崩御された際、肝心の菟道稚郎子は仁孝をもつ年上の仁徳天皇がなるべきだと主張。

一度は仁徳天皇は即位を断るものの、2人は皇位の譲り合いでなかなか次の天皇が決まりません。
そこで痺れを切らして反乱を起こしたのが、長男であった大山守皇子(おおやまもりのみこ)でした。
長男の反乱を菟道稚郎子が鎮圧し、仁徳天皇を天皇にすべく菟道稚郎子は自ら命を絶ってしまいました。
菟道稚郎子の自殺から3年、仁徳天皇は弟の意志を継いで天皇へと即位したのです。
この即位に関する騒動は、儒教では「長幼の序」そのものだとして、儒学者からは賞賛されるものだとされています。

そしてこの即位騒動以来、日本でも末子相続から長男相続へと移り変わっていったという説もあります。
実はこの頃から、日本の大和政権の支配がどんどん広がっており、政(まつりごと)も数が多く複雑化したため、国を治めていくのに年長者が適していると捉えられるようになったのかもしれません。
ちなみに仁徳天皇が河内王朝の始まりだとする説や、応神天皇とは親子ではなかったという説もあります。

民のかまどは賑いにけり

仁徳天皇天皇となった仁徳天皇は、民のための政治を進めていきます。
治水や灌漑設備に力を注ぎ、大阪府寝屋川付近にある茨田堤に堤防を作りました。
難波堀江を作ったのも仁徳天皇であり、この工事こそが日本で初となる大規模な土木工事だったとされています。

さらに新たな農耕地も開拓を進め、新たに作られた田んぼは四万余頃だとされています。
しかし民のための治水や開拓を進めていたある日、仁徳天皇はあることに気づきます。
その日、高い山から四方を眺めて町の様子を見ていた天皇は、民家から炊飯のための煙が出ていなかったのです。

煙が出ていなかった理由について、仁徳天皇は心を痛めます。

仁徳天皇:「大規模な工事が原因で、民が疲弊してしまっているのか……」

そこで仁徳天皇は民へ課していた税金を3年も免除しました。
その間、高津宮に雨漏りが起こるも、修理をせずに我慢したのです。

税金を免除してから3年後、再び仁徳天皇が山から周囲の街を見下ろすと町の家々からは炊飯のための煙がもくもくと立ち上がっていました。
そんな町の様子を見て、仁徳天皇はこんな歌を詠みました。

仁徳天皇:「高き屋に のぼりて見れば けむり立つ 民のかまどは にぎはひにけり」

このエピソードは「民の竈(かまど)」と呼ばれる故事の逸話となっていますが、実は平安時代に仁徳天皇を思って誰かが詠んだ歌なのだとか。

女好きゆえに皇后から嫉妬される天皇

とても人間らしく民への心配りもあった仁徳天皇ですが、女好きだという一面もありました。
政では民の生活を向上させようと様々なことを行い、自分自身は質素な生活を心がけていました。
その姿勢から仁孝がある天皇と呼ばれています。

けれども女好きであった仁徳天皇は、皇后「磐之媛」以外にも多くの女性を妻としており、皇后からの嫉妬が絶えず続いていたという話も残っています。

百舌鳥耳原中陵

仁徳天皇の遺跡は「大仙陵古墳(大山古墳)」と呼ばれ、大阪府堺市堺区大仙町にあります。
「百舌鳥耳原中陵(もずのみみはらのなかのみささぎ)」が正式名称で、墳丘の長さはなんと525mもある前方後円墳なのです。
御陵としては正解最大として知られています。
ちなみに「百舌鳥耳原中陵」という御陵の名前ですが、御陵を造営中に1頭の鹿が駆け込んできて絶命し、その鹿の耳からモズが出てきたというエピソードから、百舌鳥耳原という地名になり、御陵の名前としても採用されたそうです。