後一条天皇|壺切御剣と絶頂期を迎えた藤原道長
後一条天皇が即位すると、さらに勢いを増した藤原道長。
栄華絶頂期を迎え、天皇から皇太子へと相伝される守り刀すらも、藤原道長の邪魔が入るようになったと伝えられています。
第68代 後一条天皇(ごいちじょう)
【諡号】 ―
【諱】 敦成(あつひら)
【異称】 ―
【生没】 1008年~1036年
【在位】 1016年~1036年
【在位中の元号】 長和、寛仁、治安、万寿、長元
【父】 一条天皇(第2皇子)
【母】 藤原彰子(藤原道長の娘)
【陵】 菩提樹院陵(京都府京都市左京区)
栄華絶頂期を迎えた藤原道長
藤原道長(みちなが)は、後一条天皇時代に栄華の絶頂期を迎え、こんな歌を残しています。
「この世をば我世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば」
藤原道長の外孫である敦成親王(あつひら)をわずか7歳で皇位につけ、自身は太政大臣に就きました。
さらに長男・藤原頼道を摂政・関白に就けて、完全に朝廷内での権力を我が物とし増した。
ただ唯一、藤原道長にとっては先帝・三条天皇の条件を飲んで皇太子とした敦明親王が邪魔な存在でした。
藤原道長は敦明親王を失脚させるため、天皇から皇太子へと相伝されてきた壺切御剣(つぼきりのみつるぎ)を敦明親王に相伝させないなど、様々な嫌がらせを続けました。
結果、敦明親王も皇太子を辞退するまでに追い込まれました。
天皇の座に就いた後一条天皇も、藤原道長に追従するしかなく、子供を作ることもないまま、27歳の若さで崩御されてしまいました。
歴代天皇から皇太子へと相伝され続ける壺切御剣(つぼきりのみつるぎ)
壺切御剣の始まりは、893年(寛平5年)にまで遡ります。
敦仁親王(のちの醍醐天皇)が立太子する際、宇多天皇から相伝され、その後、歴代天皇から皇太子へと授けられ続けてきました。
この剣はもともと、藤原氏が所有していたものだと言われており、藤原氏の血を引く皇太子の地位を確かなものにするため、天皇家の象徴である草薙剣を模して相伝されるようになったと言う説が有力です。
藤原道長は敦成親王を追い詰めるため、本来ならば後一条天皇から敦成親王へと渡されるはずの剣を、邪魔して渡しませんでした。
初代壺切御剣は、平安時代後期に起きた内裏火災により焼失してしまいました。
2代目壺切御剣も1221年、承久の乱の混乱で所在不明となってしまいます。
1243年、久仁親王(後の後深草天皇)の立太子にあわせ、3代目壺切御剣が誕生しました。
ちなみに所在不明となっていた2代目壺切御剣は、1258年(正嘉2年)の恒仁親王(後の亀山天皇)立太子の際、勝光明院にある宝蔵から発見されました。
そのため、3代目は廃され、2代目壺切御剣が継承され続けることが決定。
現在も壺切御剣は継承され続けており、1991年(平成3年)の徳仁親王の立太子の際、天皇陛下から2代目壺切御剣が授けられています。
菩提樹院陵
後一条天皇が眠っているとされているのは、京都府京都市左京区吉田神楽岡町にある円丘形式の菩提樹院陵(ぼだいじゅいんのみささぎ)だとされています。