醍醐天皇|理想の政治と評された延喜の治と菅原道真の怨霊
歴代天皇の中でも自身がリーダーシップをとって政治を行ったと伝えられている醍醐天皇。
その人となりは、世に伝わっている功績をみれば明らかになります。
第60代 醍醐天皇(だいご)
【諡号】 ―
【諱】 維城(これざね)、のちに敦仁(あつぎみ)
【異称】 延喜帝(えんぎのみかど)
【生没】 885年~930年
【在位】 897年~930年
【在位中の元号】 寛平、昌泰、延喜、延長
【父】 宇多天皇(第1皇子)
【母】 藤原胤子(藤原高藤の娘)
【陵】 後山科陵(京都府京都市伏見区)
民のための政治を行った理想の天皇
父である宇多天皇から譲位されて即位した第60代醍醐天皇。
宇多天皇時代のブレーンでもあった家臣、源善(みなもとのよし)や右大臣・菅原道真らをそのまま起用しました。
平安時代の歴史物語として知られる大鏡には、醍醐天皇に関してこんな一文があります。
「雪が降り積もって寒さが一段と厳しい夜に、諸国の民はいかに寒からんとて御衣を脱す」
これは醍醐天皇が貧しい民の生活を偲んでいたことが分かる一文です。
雪が降り積もるほどの寒い夜、民はどれくらい寒い思いをしているのだろうと、醍醐天皇自ら衣を脱いだという意味です。
実際のところ、醍醐天皇は自ら政治を行い、民のために以下のような政策を行なっていました。
- 悪天候での不作や病が流行した時:免税や大赦を行う
- 農作物の不作の年:9月9日の重陽の節を中止
- 旱魃の際:民衆が冷泉院にある池の水を汲んでも構わないとし、冷泉院の池の水が尽きた時には神泉院の水を汲むことも許した
- 鴨川で洪水が発生した際:その年の年貢や労役を免除、水害にあった民衆を助ける
このようなエピソードを知ると、どれだけ民衆のことを思って政治に携わっていたのかが伝わってきます。
醍醐天皇は自らリーダーシップを取り、民衆のための政治を行った頃から、後に理想の天皇と呼ばれるようになります。
さらに「延期格式(律令国家の基本)』や国史「日本三代実録」、「古今和歌集」を完成させたのも醍醐天皇時代の功績であり
文化面での振興にも力を入れていました。
上皇・宇多上皇と新帝・醍醐天皇の対立が引き起こした「昌泰の変」
醍醐天皇に譲位して上皇となった宇多上皇は、譲位後も実権を握ろうとしていました。
宇多上皇が見せた動きとはこちら。
- 醍醐天皇へ『寛平御遺誡』を説く(君主としての心構え)
- 宇多天皇時代の「寛平の治」で活躍した側近を醍醐天皇の側近へと置いた(菅原道真・源善・中納言源希・蔵人頭平季長・侍従藤原忠平ら)
この宇多上皇の動きに激しく反発したのが、上級貴族の一部(藤原時平・大納言源光ら)や中下級貴族ら(藤原清貫・藤原菅根・三善清行ら)でした。
そして醍醐天皇と宇多上皇の対立も深まっていきます。
宇多上皇が醍醐天皇へ譲位した当時、宇多上皇はとある一派を強く警戒していました。
任命天皇の嫡流子孫・元良親王(陽成天皇皇子)らを皇位継承者として擁立しようとする一派です。
この一派をなんとか退けようと、宇多上皇は同母妹である為子内親王を醍醐天皇の妃にしました。
為子内親王が皇子を産むことで皇位継承者としようとするのですが、為子内親王は皇子を産む前に亡くなってしまいます。
醍醐天皇は、宇多上皇の動きに反発していた上級貴族・藤原時平と相談し、藤原穏子を入内させました。
けれども宇多上皇は、藤原時平が外戚の地位を狙っているものだと考えて強く反発の意を示しました。
宇多上皇は阿衡事件(阿衡の紛議)を経験していることから、これ以上藤原系の皇子は生まれるべきでは無いと考えていたのです。
しかし醍醐天皇が望んだのは、藤原氏とより強く連携して、政権を安定させることでした。
意見が真っ向から対立した醍醐天皇と宇多上皇。
決定的となったのは、とある噂が流れたことでした。
「宇多上皇が、菅原道真の娘婿・斉世親王を皇太弟に擁立しようとしている」
この噂をきっかけとして、宇多上皇や菅原道真のやり方に不満を抱いていた者達が結託して主導権をとりかえそうと動き始めます。
醍醐天皇・藤原時平・藤原菅根といった面々が本格的に動き出し、かの有名な菅原道真の左遷が決定したのです。
1月25日。醍醐天皇の宣命「菅原道真を大宰員外帥へと任命す」
これは明らかな降格に他なりませんでした。
その後も醍醐天皇と藤原時平らの動きは止まりませんでした。
- 善を出雲権守へ任命。事実上の左遷
- 左遷を免れた源希は翌年に病で命を落とす
- 藤原忠平は中枢から事実上の左遷
この政変は、醍醐天皇と藤原時平一派の勝利でした。
醍醐天皇はすぐに藤原穏子を女御とし、事実上の妃としました。
そのため、直系の皇子が継承権を得て、藤原しとの連携も強くなることとなりました。
宇多天皇時代には藤原氏の勢力を抑えようという方向性でしたが
醍醐天皇の方針により、再び藤原氏の影響力が増す結果になりました。
政変に勝利した醍醐天皇と藤原時平が目指したものは、政治主導を握る「延喜の治」というもの。
けれども8年後、藤原時平が急死し、醍醐天皇も病で床に伏すことが増えてしまいます。
状況の悪化から、再び宇多上皇が藤原忠平らとともに政治権力を手にするようになっていくのです。
菅原道真が左遷され亡くなった後、天変地異が続発したことは有名であり、清涼殿落雷事件なども史実として記されています。
天変地異は菅原道真の怨霊の仕業だと囁かれ恐れられました。
ただし、この政変に関しては真相が明らかになっていません。
というのも、伝わっている史実に疑問点が多く残されているのです。
- 菅原道真の名誉回復や政変を綴った資料が破棄されている可能性が高い
- 醍醐天皇の評価が高かったため、宇多上皇の皇位継承に関する方針の違いが軽視されている
醍醐天皇がリーダーシップをとった政治「延喜の治」
後に「理想の政治」として評価された醍醐天皇の手腕。
摂関を置くことなく、延喜格式の編纂を進め、見本となる天皇親政でした。
10世紀中頃に天皇親政を進めた村上天皇と併せて評価され
醍醐天皇の「延喜の治」、村上天皇の「天暦の治」と称されました。
しかし、一見天皇親政に見えた延喜の治は、太政官筆頭であった左大臣・藤原時平が実験を握っていたとも言われています。
藤原時平は天皇と外戚関係になかったことから、摂関に就くことはできませんでした。
けれども妹である藤原穏子を醍醐天皇の中宮にすることに成功しています。
子沢山で皇子も多かった醍醐天皇ですが、立太子したのは藤原穏子との間に生まれた皇子だけでした。
ここで密かに、後世まで続く摂関政治の基礎が出来上がりつつあったのです。
藤原時平がリードした政治方針は、59代宇多天皇から引き継いだものでした。
<59代宇多天皇の政治方針「寛平の治」>
- 有力貴族や寺社などの「権門」の力を抑制
- 小農民を保護
これらの方向性は律令制へと回帰させるものでした。
宇多天皇の政治方針を引き継いだ藤原時平は、902年(延喜2年)に班田を励行する法令を発布するなど
律令制回帰を目指した政治をすすめました。
けれども結果として、延喜の治は成功とは呼べないものとなっています。
百姓の間でも格差や階層が大きくなり始めていたことから、律令制で重要な仕組みが整えることができず
律令制は不可能な状況だったのです。
結果として、醍醐天皇時代に行われた延喜の治は、律令制復活を目指すための、最後の試みとなっています。
そして律令制復活が不可能であると証明されたこととなり、61代朱雀天皇、藤原忠平らは律令制回帰を諦めざるを得ず、新たな方向性として王朝国家体制を目指すこととなりました。
初めて作られた勅撰和歌集「古今和歌集」
醍醐天皇は和歌の腕が優れていたと伝えられており、初となる勅撰和歌集「古今和歌集」を作りました。
<古今和歌集とは>
撰者:紀友則・紀貫之・凡河内躬恒・壬生忠岑
延喜5年(905年)4月18日に奏上。
仮名序(仮名で書かれた和歌)と真名序からなる和歌集。
醍醐天皇は古い時代の和歌からは、「万葉集」に選出されなかったものの優れているものを選出することを命じ、新しい和歌からも優れているものを選ばせて編纂させました。
しかし、現代に伝わっている古今和歌集を見てみると、延喜5年以降の和歌も入っていることから、後々に編集された可能性が高いと言われています。
現在伝わっている内容となったのは、912年(延喜12年)だという見方もあります。
ちなみに撰者の筆頭は紀友則となっていますが、仮名序で署名されているのは紀貫之であり、巻第十六には紀友則が身まかりにける時によめる、の一文もあります。
そして詞書には紀貫之と凡河内躬恒の和歌も掲載されていることから、紀友則とは編纂の途中で亡くなり、紀貫之が中心となって作成されたという説が有力です。
後山科陵
醍醐天皇が眠っているのは、京都府京都市伏見区醍醐古道町にある後山科陵(のちのやましなのみささぎ)です。
円丘形式で、長い間、醍醐寺が御陵を管理していたことから、
平安時代に作られた陵の中でも、所在がはっきりしている数少ない陵でもあります。