武烈天皇|極悪非道、残虐なエピソード満載の天皇
顕宗天皇や仁賢天皇のように民衆の気持ちが分かる、民衆のための政を行う天皇もいれば武烈天皇のように残虐極まりないエピソードが残る天皇もいます。
第25代 武烈天皇(ぶれつ)
【諡号】 小泊瀬稚鷦鷯天皇(おばつせわかさざきのすめらみこと)
【生没】 489年~507年
【在位】 499年~507年
【父】 仁賢天皇(第1皇子)
【母】 春日大娘(雄略天皇の娘)
【陵】 傍丘磐坏丘北陵(奈良県香芝市北今泉)
武烈天皇、その名前からイメージするに強い力を持っているのではないかと考えてしまいます。
けれども「日本書紀」に残されている武烈天皇のエピソードは、極悪非道を極めたものばかりでした。
- お腹の中にいる胎児を見て見たいと、妊婦の腹を切り裂いた
- 生きたまま爪を剥がし、山芋を掘るよう命じた
- 池の樋に人を押し込めただけでなく、流されてきたところを刺し殺した
- 馬と女を交わらせた
どれもこれも残虐としか言い表しようのないエピソードばかり。
とことん諸悪ばかりでひとつも良なしと綴ったものもあるほどでした。
けれどもそれは日本書紀の話であり、「古事記」では武烈天皇の異常な行いや残虐なエピソードというのは、ひとつもありません。
なぜ日本書紀では武烈天皇を貶めるようなエピソードが盛り込まれ、古事記にはないのか。
というのも日本書紀は官選史書が作成したものであり、第26代天皇・継体天皇が即位したことを正当化したかった・・・という意味合いがあったのではという推測があります。
ただ、裁判は厳正に行ったというエピソードも伝わっています。
傍丘磐坏丘北陵
武烈天皇の御陵と定められているのは傍丘磐坏丘北陵(かたおかのいわつきのおかのきたのみささぎ)、奈良県香芝市今泉にぞんざいする山形の古墳だとされています。
顕宗天皇の「傍丘磐坏丘南陵」と付いになった陵号です。
古事記では「片岡之石坏岡」と綴られており、日本書紀では「傍丘磐坏丘陵」とありと記されています。
さらにこの2つの御陵と孝霊天皇の「片丘馬坂陵」の3つで「片岡三陵」と呼ばれています。
そして、同様に武烈天皇が眠っているのではないかと言われている御陵があります。
奈良県北葛城郡広陵町大塚に存在する遺跡名「新山古墳」、大塚陵墓参考地(おおつかりょうぼさんこうち)です。