清寧天皇|雄略天皇の真逆と呼ばれた天皇
第22代清寧天皇は先帝雄略天皇が暴君とも恐れられるカリスマ性に対して真逆ともいえる天皇です。
残虐性や軍事力、気性の激しさを物語るエピソードの数々で強烈な印象を残した雄略天皇とは異なり、清寧天皇はあまり多くのエピソードが残っていません。
第22代 清寧天皇(せいねい)
【諡号】 白髪武広国押稚日本根子天皇(しらかのたけひろくにおしわかやまとねこのすめらみこと)
【生没】 444年~484年
【在位】 480年~484年
【父】 雄略天皇(第3皇子)
【母】 韓媛(葛城円大臣の娘)
【陵】 河内坂門原陵(大阪府羽曳野市西浦)
清寧天皇は、生まれた時から白髪だったという驚きのエピソードが記されています。
父である雄略天皇亡き後、清寧天皇は皇位に関して積極的ではありませんでした。
そのために異母兄弟である星川皇子(ほしかわのみこ)が天皇の座を奪うために動き、一時清寧天皇は皇位を奪われる寸前でした。
それでも星川皇子を討ち取ろうとはしなかった清寧天皇。
清寧天皇を即位させるために動いたのは、雄略天皇の側近として仕えていた大伴室屋(おおとものむろや)らであり、星川皇子は雄略天皇の側近らに討伐されました。
自身の血をひく子をもうけなかった清寧天皇が皇太子に迎え入れたのは、父である雄略天皇により惨殺された市辺押磐皇子(いちのへのおしはのみこ)の嫡子・億計王(おけのみこ)でした。
その弟の弘計王(をけのみこ)も皇子として迎え入れたのち、清寧天皇は即位してわずか4年で崩御されます。
清寧天皇亡き後、すぐに皇太子が即位したわけではなく、市辺押磐皇子の娘である飯豊青皇女(いいとよあおのひめみこ)が一時的に即位していた期間があるとも伝えられています。
河内坂門原陵
清寧天皇が眠るとされている御陵は、河内坂門原陵(こうちのさかどのはらのみささぎ)、「白髪山古墳」と呼ばれる遺跡です。
大阪府羽曳野市西浦6丁目にあり112mもの墳丘の長さがある前方後円墳となっています。