顕宗天皇|庶民の暮らしを体験して政を行った天皇
歴代天野の中でも、辺境の地で下層民の暮らしをしていた時期があった顕宗天皇。
馬や牛といった家畜の世話をしていたため、庶民に寄り添った政をしたというエピソードが残っています。
第23代 顕宗天皇(けんぞう)
【諡号】 弘計天皇(をけのすめらみこと)
【異称】 来目稚子、袁祁之石巣別命
【生没】 450年~487年
【在位】 485年~487年
【父】 市辺押磐皇子(第2皇子)
【母】 荑媛(葛城蟻臣の娘)
【陵】 傍丘磐坏丘南陵(奈良県香蒂北今市)
父は市辺押磐皇子であり、母は葛城系である葛城蟻臣の娘・荑媛(はえひめ)。
顕宗天皇には億計王(おけのみこ)という兄がいました。
天皇の血筋でありながらも、雄略天皇から逃れるために、兄弟で丹波国余社郡に向かいました。
そこから播磨国赤石へと渡り「丹波小子(たにわのわらわ)」と名前も変えて、一般市民の中でも下層民として暮らしてたとされています。
辺境の地で下層民として牛や馬の世話をしていた顕宗天皇。
そんな顕宗天皇が清寧天皇の後継者として都に戻ることができたのは、支えていた主人の新築祝いが催されたことがきっかけでした。
顕宗天皇が下層民として支えていた主人が、ある日新築祝いの宴を催します。
そこに播磨国司らが列席していたのですが、顕宗天皇は播磨国司らに身分を打ち明けたのです。
清寧天皇亡き後、兄弟のどちらが次の天皇になるかで譲り合いが勃発。
奪い合いではなく譲り合いです。
しかし兄弟の譲り合いは、兄の説得が決定打となりました。
億計王(仁賢天皇):「命の危機を冒しながらも身分を明かした弘計王の勇気が、天皇にふさわしい」
兄の説得の末に天皇となった弘計王は、下層民として暮らした経験を政に活かしたと言われています。
実在したかについては賛否両論
顕宗天皇とその兄・億計天皇のエピソードについては、古くから「典型的なストーリー」、「いかにも物語が盛り上がりそうな劇的要素が強い」と囁かれてきました
古代天皇については実在したかどうかが怪しいとされる天皇も少なくない。
二人のエピソードについても本物なのかどうか、実在したかについて確証は得られていません。
そのため現在でも実在については賛否両論なのですが、史実性が高まっている流れもあります。
- 兄弟が畿内周辺へと辿り着き、主人の新しい住居を祝う宴では唱え言をあげた
- 弘計のまたの名「来目稚子(くめのわくご)」は久米舞継承の来目部(くめべ)なのでは
- 神楽歌に登場する囃し言葉「おけおけ」
このようなエピソードというのは当時の民俗文化と整合性があるとも言われていることから、本当に実在したのではないかという説も根強く残っているのです。
その他の意見としては、二人の皇子が発見されたエピソードが例えば作り話だったとしても、だからと言って天皇系譜が誤っていることには直結しないというものもあります。
傍丘磐坏丘南陵
宮内庁が顕宗天皇の御陵として定めたのは、香芝市北今市にある前方後円墳・傍丘磐坏丘南陵(かたおかのいわつきのおかのみなみのみささぎ)です。
しかし奈良県大和高田市築山にある築山古墳、園陵墓参考地(いわぞのりょうぼさんこうち)も顕宗天皇の御陵なのではないかとも言われています。